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第一回戦SS・大浴場その1


 道端にいたかえるを、踏みつぶしてしまったことがある。あれはいつだったか。夏の暑い日だった。道路はからからに干からびて、サンダルの裏からフライパンの底みたいな熱が伝わってきた。なぜだかそのときはなんとも思わず、足を公園の水道で洗って家に帰ると、その日の夕食はバルサミコ風味のポークソテー、たしかつけあわせはキャベツの千切りで、あと副菜にミョウガをのせた絹ごしの冷やっこ。そのぷるぷるした白い塊が喉をとおりすぎる瞬間、あのとき足の皮膚から伝わった、ねばらかな皮袋につまった柔らかな内臓をチューブみたいにひねり出すあの感覚、あれを思い出してしまって、私は逆流した胃液と未消化の夕食でテーブルを汚してしまった。あのときも、暈哉は、私のことを気色悪いなんていっぺんも思わず、椅子を跳ね除けかけつけて介抱してくれた。どうしたんだ、姉ちゃん、大丈夫かって。背中に添えられた手は何より暖かかった。それが本当にうれしかった。

 今も心配させてるかな。ちゃんと帰らないと。あれを、倒して。

 なぜこんなことを急に思い出したのかよくわからない。あるべき場所から、いるべき時から遠く離されたこの地にいることの不安が、少女・雨竜院暈々の記憶回路をいたずらに揺り動かしたのかもしれない。あるいはまた彼女の生理的防御反応が、目の前にある異形の存在が、けして触れてはならない不浄のものであると、そう警告を告げているのかもしれない。

 巨人の積み木細工を思わせる石造りの大浴場に、ふたりの少女はじっと相対していた。円柱形の石柱から伸びる力強い半円のアーチ、床に広がる正方形の繰り返し模様。ユピテル、ディアナ、マルス、ヴィーナス……居並ぶ白い裸体の神々に見守られたその荘厳な浴室の中で、ふたりの姿は異質そのもので、まるでルネサンス期の油絵に漫画から切り抜いたキャラクターをただ貼り付けたかのように挑発的だった。

 ひとりは、雨竜院暈々という名を持つ、白いワンピースに薄緑の上掛けを纏った清楚な美女である。長い黒髪をすらりと支える凛とした姿勢からは、武芸者の積み上げた鍛錬と一抹の青々しさが伺える。その手には身の丈に合わぬ長大な一本の傘が握られている。それが彼女の得物だ。雨竜院暈々は細めた目で敵を捉え、その唯一の武器、武傘アンクテヒをまっすぐに向ける。もうひとりの少女へと。

 それは、その両手両足をぴったりと浴室の床につけたまま、四つんばいの姿勢で首を上向けやはり彼女をじっと見つめていた。両生類の皮膚を思わせるてかりを帯びた灰色の衣服に包まれて、緊張と弛緩とが相反する吹流しのように小さな身に渦巻く。周囲の光すら吸い込むかのようなその瞳に彼女は呑み込まれそうになる。異形。やはり、そう呼ぶのがふさわしい。そのちっぽけな存在の何がそこまで雨竜院暈々に恐れを抱かせるのかはわからなかったが、その顔にぽかんと空け放たれた大口は、彼女にとってまるで何か異世界へとつながる禁じられた入口のように感じられた。

 異世界――雨竜院暈々はひとりごちる。異世界とは、ここだ。ここのことだ。ギリシア……いや、たぶんローマ。映画で見たことがある。さらに、いまこのときは、私と暈哉がやすらかに暮らしていたあの時代でもない。時計が告げたとおりだ。【古代】大浴場。ここは戦闘空間、迷宮時計の争奪の場。時間も場所も粗雑に切り張りされた、時空の牢獄。入るのはふたりでも、出て行くのはひとり――この檻から脱出するための唯一のルール、それはもうひとりを打ち倒すこと。倒して、時計を奪って、置き去りにする。それしかない。雨竜院暈々は再び決意を奮い立たせる。何としてでも勝つ! 勝って、現代の日本に、愛する弟の元へと戻る!

 彼女の持つ迷宮時計は手に収まるサイズの水時計の形をとっていた。その水流のささやきはまた、倒すべき存在、あの異形の少女の名をも教えてくれていた。「一切空」。それ以上はわからない。短い時間で調べた限りでは、一切空なんて名前の人間はどこにも存在しなかった。だけど、考えていることだけはわかる。私と同じだ。

 私を倒して、帰る。元の世界へと。私をこの世界に閉じ込めたまま。

 戦いは避けられない。それをふたりが理解した上での長い対峙であった。広々とした公衆浴場の背景を奇妙にゆがませているのは、湯船から舞い昇る熱気のせいか、あるいはふたりの少女の間に張り渡された殺気がためか。両者がこの一室で不意の邂逅を遂げてから、すでに三分ほどが経過している。だがこれを見るものがもしあったなら、それは永劫の時間に感じられたことだろう。

 不意に、その異形、一切空はつぶされたかえるのごとき四つんばいの姿勢から、さらに身をぐっとかがめた。地に着いた四肢にぽっかりと空いた丸い穴を、先程までは確かに存在しなかったその空虚な穴を、雨竜院暈々は見た。その穴が、すべて、ずるりと床へと這い出た。身体から切り離された四つの穴は意思を持つかのように滑り動き、一つは壁を、一つは浴槽の縁を走り、もう二つは浴室の床に蛇行する二重螺旋を描き、雨竜院のもとへと向かっていく。移動する穴! これが、敵の能力! 雨竜院は油断無く息をひと吸いすると、手に持つ武傘で空を二回切った。目にも留まらぬ達人の素振り。瞬間、四つの穴すべてが鋭い音をたてて砕けた。水である。傘の先端、石突から射出された高圧の水滴が、滑走する四つの穴すべてを寸分違わず射抜き、動きを止めたのだ。石壁に残されたそれらは、もはや建築法上しか害のないただの水漏れ穴でしかなかった。

 だが……穴を操る能力。雨竜院は息を呑む。あれが、もし自分の身体であったなら……無事ではすまない。

 直後、一切空本人が動いた。遠距離攻撃では効果が薄いと見たか、陸上競技のように低く身をかがめた姿勢から、ほとんど四つ足の走りで一気に距離を詰める! 足元から蔓のごとく繰り出す右の掌底。その手のひらには禁忌の穴! 触れてはいけない! 雨竜院は小さな溜めから武傘の突きを繰り出す。回転する傘のひだに絡めとられた腕は空を舞う。瞬間、敵の両足は地から浮いていた。突きの回転にあわせて自らも空中を半回転し、逆の手で着地する、刹那、逆立ち状態のその身体から横なぎの回し蹴りが襲い来た。その裸足の裏にも、やはり穴! 雨竜院は首を後方へと逸らし、閃撃をかわす。体勢を立て直したのは一切空が先だ。後ろ向きにうずくまった姿勢から、再度の蹴り! 雨竜院は逡巡の後、傘を持たぬ左腕を身体の前に掲げて、その致死の足跡を受け止めた……いや、違う! 足を、飲み込んだ! 一切空の黒い目が驚愕に開かれる。雨竜院の左腕が、半透明のゲル状物質と化して、一切空の左足を、そこに空いた穴をも、包み込んでいる!

 水の魔人。それが雨竜院暈々である。水を思うがままに吸い込み、吐き出す。十分に水を吸った身体は、半液体となる。彼女は体内の水分のいくばくかを左腕に集中させ、水の鳥もちと化したその罠で一切空を誘ったのだ。その代償に、彼女の端正な顔立ちにはいま、干上がった泥のようなひびわれが生じている。液状化した腕は完全に一切空の死の穴を封じ込めていた。簡単な話だ。穴は、空いているから穴なのだ。埋められた穴は、穴ではない!

 逆さに足を吊られた一切空の無防備な腹を、一閃、武傘アンクテヒの突きが貫いた。雨竜一傘流、雨月。手ごたえは……ない。何故!? 此度の驚愕は雨竜院だった。傘は、たしかに、その奇怪な少女のへその位置を、着衣ごとまっすぐに貫き通している。なのになぜこれほどまでに抵抗がないのか!?

「アーーーー~~~…………」
と、間の抜けた声が響いた。

 笑ったのか。この唸りが、これの中では笑いということになっているのか。

 遅かった。逆さ吊りに串刺された一切空は、その両手で自らを貫く傘をがっしとつかみとった。袖の中から、次々と穴が、手に持つ傘へと流れ込んでくる。

「このッ……」
首の付け根を狙って、鋭い蹴りの一撃。シャンパンの栓のように串刺しからはじけ飛ばされたそれは、アッと短いうめき声を上げると、浴室の床をごろごろと転がった。だが、空いた穴は止まらない。雨竜院は咄嗟の判断で傘の封をといた。ぱっと花開いた傘布に、丸い穴が三つ。行き先を見失い傘布を這い回る。ためらうことなくすべて指で引き掻くと、穴は停止した。ほっと息をつく。幸い、傘骨は無事だ。雨の日にはもう差せまいが、まだ戦える。

 ぞくりと、悪寒がした。右足に、風を通す空虚な感覚。穴だ。穴が、足を、這い登っている! いったい、いつ! それは最初に交わしたあの交錯のときに違いなかった。一切空は、逆立ちのまま蹴りを繰り出したあのとき、床についた左手から、すでに穴を仕掛けていたのだ! 穴はふとももに到達する。どこまで登る。狙いは心臓か――雨竜院は、こんどこそ、自らの体内の水分をぎりぎりまで振り絞り、穴あきの右ふとももに集中させた。雑巾のようにぎちりと絞られたその他の部分とは対照的に、彼女の脚は、十数倍の体積へと膨れ上がった。硬貨大ほどあった穴は、皮膚表面で限界まで広げられると、やがて耐えかねたようにぱつんと引きちぎられた。その瞬間、水風船を割ったかのように、彼女の周囲に水のカーテンがいくつも舞った。霧雨の波がひいたあと、そこに現れた彼女の姿は、いくばくか皺がよってはいたが、もとの清楚な少女のそれに戻っていた。ふとももには、針の穴ほどの小さな傷口が一つ。したたり落ちる水滴に血がにじむ。大きく水ぶくれしたその肉の上で、傷穴は最小限に食い止められたのだ。

 雨竜院は手近な浴槽に傘の先端を沈めた。するとみるみる彼女の肌は潤いをとりもどしていった。武傘アンクテヒに備わった機構が水を吸い上げているのだ。傷は微小……だが、手の内を少々見せすぎてしまった。

 一方の一切空――自ら肉体に空けた穴で瞬速の傘突きを無効化したのであろう、異形の少女は、転がったまま離れた位置に戻ると苦しげに咳を二、三したのち、むくりと身を起こした。あちらにもほとんどダメージはないだろう。穴の魔人。厄介な。するとそれはポケットから小型の刃物を取り出した。穴の空いたねじれたナイフ。右の逆手でナイフの柄を持つと、何をおもったか……それは狂ったように、自らの左腕を、やたらめったらに刺しはじめた。

「アッ、アッ、アッ、アアッ」

 自傷行為を繰り返すたびに、喉からひねり出すような奇声が響く。何をやっているの。いったい何を……一瞬とらわれかけた恐怖と膀胱の緩みの奥から、雨竜院暈々はすぐに正解を見出した。自分と同じだ。弾薬の補給。先の戦闘で使い捨てた穴を、いまああして再び自らの身体につくっているのだ。

「アーー……」
左腕を手から肩まであらかた刺し終えると、最後に、一切空は手のナイフを自らの頬に突き立てた。空けた大口を横一線に貫通するナイフ。なめくじのような舌が照り返しで紫色に光る。それを見る雨竜院暈々の瞳は、奇妙に落ち着いていた。少しだけ、安心したからだ。あれは、理解不能な異次元の化け物ではない。思考し、戦略を練る、生きた人間だ。理性がある。だからこそ、つけ入る隙はある。

 すると一切空は、目の前に両手をつくと、今しがたこしらえたであろう穴をすべて移し、一つにまとめ、浴室の床に大きな丸穴を作り出した。穴は一切空を床下へ飲み込んだあと、すぐに閉じた。裏で回収したのだろう。近接戦においても分が悪いとの判断か、今度は奇襲に出る気だ。ならば、迎え撃つ。

 雨竜院暈々は浴室を飛び出て、廊下を走る。水上スキーのようになめらかに滑るその俊足の足取りは、実際、足の裏から放出した水流に体重を乗せて駆けているのだ。色鮮やかに彩られた回廊を走りながら、彼女はひとつ場違いな疑問を覚えていた――なぜ、ここには誰もいないのだろう。先程の浴室は壁も床も石像も、きれいに磨かれ掃除が行き届いていた。あそこに沸いていた湯、あれは温泉だろうけれど、あれもつい先程まで人がいたかのよう。迷宮時計が、選んだ戦場から、無関係の人々を退けた……? いや、この底意地の極端にひねくれた運命者が、そんな優しい気遣いなどするはずがない。だったらなぜ。戦況とは無縁のこの疑問は、やがて彼女の足取りとともに小さな一室の中で止まった。

 それは、名のある貴族のプライベートな浴室であろう。7m四方ほどの正方形の部屋に、それぞれ趣向を凝らした浴槽が複数あしらえてある。この広さ。これだけあれば十分。雨竜院はそのうちの一つ、部屋の中心部にある真円形の浴槽に足を漬け入れると、目を閉じ、時を待った。

 それはまた、長い、長い時であった。武傘を手に、彼女は待ち続けた。その心に、純粋な願いだけを燃やして。

 ドオン、ドオン……遠くから地の底を揺らがす音が響く。ドオン、ドオン……それは徐々に近づいてくる。一切空。建物を破壊しているのか。ドオオン、ドオオン……やがて、雨竜院暈々が待つその部屋の石天井に、小さな丸穴が一つ空いた。いや、一つではない。一瞬にして数十もの穴が生じる。ちょうど円形の浴槽の縁を天井にトレースするかのように、穴は寄り添い、ひとつの巨大な円環を形づくる。穴に丸く型抜きされた天井が、落ちてくる――彼女の元へと! 上の階からやはり同様に切り出したであろうものも含めて、その数トンはあろうかと思われる石造りの大質量が、容赦なく彼女の身体に降り注ぐ。いかに肉体を軟体化させようとも、抗いようが無い。それは柔らかな肉のゼリーに包まれた彼女の骨、内臓を全て打ち砕き、つぶれた煮こごりへと変える。跳ね上がる水しぶき。轟音。麗美を尽くした浴槽は、瞬く間に、瓦礫の山に埋め尽くされていた。

 そこへ、ぽっかりと空いた天井の穴から、くるりと灰色の少女が降り立った。一切空である。

 勝利の証、雨竜院暈々の持つ迷宮時計を、今や冷たい石の下へと深くうずめられたそれを、奪い取るために来たのだ。その表情から感情はうかがい知れない。吹き抜けに空いた天井の穴からはまた、白いちらちらとした粉雪のようなものが舞い落ちていた。

 突如、一切空の背後から、半透明の触手が這い伸び、彼女の口を塞いだ。悲鳴をあげる暇は与えなかった。たったいま破壊されたものとは別の、部屋隅にある小さな浴槽から伸びいたるその触手は、五本に分かれた先端で彼女の四肢をがっしりと捕らえ、力強く小さな身体を引き寄せた。部屋の床を数回バウンドしながら、一切空は為すすべなく触手の根元へと引きずられていく。そこにあるのは、浴槽になみなみとたたえられた湯……否! 顔がある! 身体がある! 今まさに犠牲者をその身に引きずり込まんとする、腕がある! 雨竜院暈々である!

 雨竜院暈々の、水と同化する特殊体質! それはまさに、人智を超えたものであった! 先程瓦礫でつぶされたはずの雨竜院暈々の身体。その実際は、彼女の小指の先程しかない肉片を大きく水ぶくれさせたものに過ぎなかった。排水溝を通して本体から伸ばし、衣服を着せた水人形! 奇襲をさそう擬似餌だったのだ!

 一切空は囚われの身のまま必死にあがく。だがむなしい抵抗も実らず、やがて一切空の全身は水中へと……雨竜院暈々の肉体のテリトリーへと、引きずり込まれた。口も、鼻も、波立つ水にふさがれて。一切空は水の中で苦しげにもがく。ごぼりと泡を吐く。雨竜院はただただそれを、いまや浴槽になみなみとたたえられた水と完全に同化したその裸の肉体で、やわらかに包み込んだ。わが子をかき抱く母親のように、ひたすらその腕で抱きしめた。どこにあるとも知れない不定形の目を閉じて祈る。どうか、このまま。このまま終わって。震える体から抵抗はだんだんと力弱いものになっていく。やがて、苦しげに水面に突き出た右手ががくりと垂れ落ちると、一切空は、穴だらけの異形の少女は――それきり動かなくなった。

 五分。十分。十五分……どれだけの時間をそうしていたのか。一切空は動かない。水の中で膝を丸めた少女の姿は、羊水にたゆたう胎児のようであった。やがて、浴槽の水面が巨大な泡のように丸く膨れ上がり、溺れた少女を吐き出した。泡は徐々にすぼまり人の形をとり……あらわれたのは、濡れそぼった裸体の、雨竜院暈々だった。泣いていた。湿り気を帯びた長い黒髪が、白肌に絡み付いていた。

「……勝った。暈哉、勝てたよ……」

 それが本当であれば、どれだけ良かっただろう。

 一切空が、目を開けた。

 戦いは終わっていなかった。雨竜院暈々は見た。一切空が。死んだはずのそれが。うつぶせのままその右手を高く掲げ――そして、渾身の力をこめて床に叩き付ける様を。その手のひらからはおぞましい量の穴が、暗がりに潜む蟲が日の光にさらされたかのごとく、群れを為して這い出た。黙示録のイナゴを思わせる黒々とした大群はなぜかそばに立つ雨竜院を避け、部屋の四隅にある石柱に向かうと、蹂躙をはじめた。けなげに天井を支える柱たちは見る間に虫喰い穴に喰われ、やがて重みに耐えかねると、間をひびわれが繋いだ。そして石壁が。天井が。地鳴りとともに崩れていく。一糸まとわぬ雨竜院は、瓦礫を避け、水膜で身を守りながら、たったいま目撃したその光景を心中で反芻していた。

 穴。一切空の、右手のひらの下方、手首の付け根に、深い、深い穴が空いていた。そのただただ暗い穴は人を呑み込む闇深い洞窟のようで、終わりがまったく見えなかった。その先は、どこへ向かっているのか――雨竜院暈々は悟った。あの穴は、腕をまっすぐ掘り進み、肩を通り抜けて体内へ――肺まで達して。そうだ。自分と同じ。あいつは全身の穴を一箇所にぜんぶ集めて、手のひらに新たな呼吸孔をつくり出したのだ! あのとき、私の水に包み込まれた彼女がもがくのをやめたのは、彼女が息絶えたからではなかった。もがく必要が無くなっただけだったのだ。水面に突き出た手のひらは口鼻へ、腕は気道へと変わった。あとはただ、悟られないようゆっくりと、横隔膜のポンプでいつもどおりの呼吸をすればよかった。その即席のシュノーケルを通し、彼女の肺は新鮮な空気で満たされていた。そして待っていたのだ――水の牢獄から解放される、そのときを!

 彼女の後悔は、崩壊する大浴場の断末魔の中で塗りつぶされた。壁と天井が消失し、閉ざされていた外の世界があらわになる。そこは、灰色の世界だった。

 灰色。見渡すかぎりのすべての景色は、退屈な灰色に染められていた。石造りの地はまるで喪服を着せられたようにのっぺりとした灰色の一幕、空には視界をさえぎるほどの灰色の粉吹雪。これは、雪――いや、違う。灰だ。火山灰! 雨竜院暈々はあっと悲鳴をあげかけた。だがもう遅かった。一瞬にして、彼女の湿潤な肌はべたべたした灰色の泥に覆われていた。そして、その肌は、夏の日照りにさらされた干物のように、急速に皺を生じ、乾いていった。水が。体中の水分が、奪われていく。ここに至り、彼女ははじめて自分がいま、いつ、どこにいるかを正確に理解した。灰の渦にかき消える遠景に煙を吹く山がかすかに見える。ヴェスヴィオ火山。そうだ、地学の授業で習った。西暦79年。古代ローマ、ポンペイ。大地の気まぐれがすべてを一昼夜にして飲み込んだ街。その姿かたちを、そこで暮らしていた人々ごと保ち続けたまま、千年もの時を眠り続けた古代都市――その稀有なる奇跡の主要因、天然の乾燥剤、大量に放出された多孔質の火山性珪素化合物、それがいま、まさに、彼女の裸体を無慈悲なほど覆いつくし、いかんなく吸水作用をはたらかせている! 水! 水が! わたしの水! 常人よりもはるかに浸透力の高いその肌からとめどなく水分が抜け出ていく! 衣服を脱ぎ捨てていたことがあだとなった。命を搾り取られる苦しみから逃れようと、彼女は体中の泥を必死に振り払う。だがそれはかえって悪手であった。べたつく泥が除かれたその肌に、またしても、大気中をすさまじい密度で吹き荒れる乾いた灰があらたに貼りついた。それは獲物をとらえた羽蟻のごとく寄りたかって彼女をさいなんだ。

 雨竜院暈々は地に倒れ伏した。干からびたその肌に、もはや、力は残されていなかった。

 灰の吹きすさぶ中に、一切空は、立っていた。極端に背中を曲げた、不恰好さで。少女は地に積もる灰を掘り返すと、手に収まるほどの水時計を見つけた。そしてそれを懐に収めようとしたが、水を吸い重くなった衣服は思うようにはがれず、いくばくか試行したのち乱暴な手先で上着をすべて脱ぎ捨てた。

 あらわになった、裸の少女の上半身に、いくつもの穴が空いていた。その肩にも、そのあばらにも、その小さな乳房にも。左胸に空いたひときわ大きな穴に、彼女の迷宮時計はすっぽりとおさまっていた。手に持つ水時計を不器用に組み入れると、それは、彼女と同じく、機械仕掛けの懐中時計を構成する一要素へと変わった。時計が放つ彩光は角度ごとに微細な色調の変化を生じ、無彩色の凡庸な景色の中でそれだけがひときわ輝いていた。

「綺麗ね」
雨竜院暈々は乾いた唇でだれに言うともなくそうつぶやいた。それを聞いたか聞いていないか、一切空は、ひときわ長く
「アーーーーーーー」
とだけ声を伸ばすと、かくりとその頭をたれた。それはなにか死闘を繰り広げた相手に対する礼節か、あるいは謝罪の言葉のようにも見えた。なぜだかその瞳はどこか悲しげに感じられた。

 一切空は去った。雨竜院暈々はその場に残された。その心に去来するのは、やはり、二千年ほどの時空を遠く引き離されたところにいる、弟のことだった。

 二千年。永い時。だけど、永遠ではない。二千年の時間をこの埋もれゆく街とともに眠れば、また暈哉に遭えるだろうか。暈哉は、また私のことを、姉ちゃん、と呼んでくれるだろうか。

 身体が乾いていく。だが彼女の両目からあふれるふたすじの水分だけは、しばらくの間彼女の頬をうるおし続けていた。