逃亡のコニャポニャ


街の明かりを遠く見下ろす山腹の展望台に、一台の高級車が停車した。
運転手が降り立ち後部座席のドアを開くと、中から上品なスーツを着た婦人が現れた。
歳のほどは30台後半だろうか。その肌は少女のように瑞々しい。

「さあ二人とも、車を降りて」

婦人の呼び掛けに応じて車内から二人の少年が怯えた様子で出てくる。
一人はパステルブルー、もう一人はパステルグリーンの、フワフワしたファーが付いた服を着ており、瓜二つだ。双子なのだ。
そして、二人の栗色の髪からは、猫の耳がはえており、半ズボンの後ろからは尻尾が伸びている。
身長120センチほど。
『噛ませ犬派遣協会』の技術を転用して造られた愛玩用の人造魔人だ。
首輪には「Cognac」「Pognac」と刻印されており、これが二人に与えられた名である。
能力は二人でひとつの“動物語通訳”だが、これは今夜この山で起きる出来事とは無関係なので詳細は割愛する。

「お逃げなさい。この山を無事に越えることができれば、あなた達は自由です」

「はい……!」

コニャックとポニャックは表情を硬くしながらも、強く頷いた。
婦人は闇のオークションで二人を競り落とし、ここで逃がすことにしたのだ。

「さあ、お行きなさい。そして、精一杯生きなさい。あなた達にはその権利があるのです!」

婦人は、関西全域の蟹流通を支配するコングロマリット『金満寺グループ』の一員であり、金と暇を持て余した人間である。
戯れに人間オークションに参加しては、このようなことをしているのだ。
だが、これを慈善行為と呼ぶことはできない。
真に猫耳少年たちのことを思うのならば、然るべき施設に預けて教育を施すのが筋である。
これは、持たざる者の運命を弄ぶ金持ちの道楽に過ぎないのだ。

「ねえ荒巣、あの子達、上手く逃げることができるかしら?」
婦人は執事兼運転手の男に、問いかけた。

「はい。あの子達は強い子です。きっと、奥様の願う通りに」
彼は表情を変えずに言った。
もとより、主の行為に意見するような権利は彼にはないし、そうしたいとも思っていない。

「ふふ、そうね。そうなるといいわね」
婦人はにっこりと微笑み、手を繋いで駆けてゆく二人の少年の背中を見送った。
そして、二人の姿が見えなくなると、左腕の『時計』を見て溜め息をついた。



荒い息を吐きながら、二人の猫耳少年が走る。
三日月の照らす薄暗い山道。残忍な追跡者はすぐ近くまで迫っていた。
コニャックとポニャックの速度は、走り疲れてかなり鈍ってきている。
追い付かれるのは時間の問題だ。銃声が響く。

「あぐっ!」
青い服の少年の左足を、激痛が貫く。
銃弾が貫通したのだ。転倒。坂を転げ落ちる。
もうすぐで、山を抜けることができたのに。

「くそっ! よくも兄ちゃんを!」
緑の服の少年は足を止め、背後の追跡者に向き直る。
無謀にも、戦う気だ。

「やめろポニャック! お前だけでも逃げろ!」

「できるかよ!」

再び銃声。ポニャックは精神集中して追跡者の方向を睨む。
猫の遺伝子を組み込まれたポニャックの動体視力と運動能力は、常人を遥かに上回る。
冷たい月の光を反射した弾丸が飛んでくる様子がはっきりと見えた。
避けられる! ポニャックは大きく左に跳躍した。

ポニャックにはよく見えた。
真っ直ぐに飛んでいたはずの弾丸が方向転換して、自分の方へと向かってくる様子が。
銃弾は、宙を舞うポニャックの腹部を正確に貫通した。

「ぐぅあああっ!」

痛みで着地に失敗し、斜面を転がり落ちるポニャック。
そして、兄の上に重なりあうように止まった。

「んもう、駄目じゃない立ち向かってきちゃあ。逃げろって、言ったでしょ?」
追跡者がゆっくりと姿を現した。
魔人富豪、金満寺相楽。能力は弾丸に必中属性を付与する『全弾命中弾勢』。趣味は、人間ハンティング。
ただしここ数週間は単なる趣味ではなく、とある必要に迫られて戦闘トレーニングとして頻繁に狩りを行っていた。
「でも、今までの子の中では一番頑張ったかしらね。お疲れ様。今、楽にしてあげるね」
二人に銃口が向けられる。

「あのね、兄ちゃん」
ポニャックは兄の手を握りしめながら弱々しく言った。
「こんなのって変かもしれないけどさ、今夜は、兄ちゃんと一緒に外の世界をいっぱ走れて、ちょっと嬉しかったんだ」

「ああ」
コニャックは弟の手を強く握り返した。
「天国に行ったら、ふたりでいっぱい、いっぱい走ろうな」

コニャックとポニャックは、冷たく光る死神の鎌のような月を見上げた。
それは、研究所の中で想像していたよりも、ずっと大きくて、鋭くて、美しかった。



鮮血が迸り、金満寺相楽の左腕が肩口から斬り離されて地面に落ちた。
「なっ……えっ……?」
突然の出来事に、痛みを感じるのも忘れて相楽は後ろを振り向いた。
赤いナタを持った、背の高い怪人が立っていた。
乱れた髪に隠れて目付きは窺えないが、その口は鋭い犬歯を顕わに、三日月のように笑っていた。
シシキリ、と呼ばれる怪人である。

「エ……獲物……久し振りだァ……コ……殺すゥ……」
シシキリは、嬉しそうにニタニタと口元に笑みを浮かべた。

「うわあああああっ、あああ、うぐああああっ!」
痛覚の存在を思い出した相楽が、左腕切断の激痛に叫び、鮮血を噴き続ける肩の断面を押さえてうずくまる。
シシキリは、ゆっくりとナタを振り上げる。

「荒巣っ! 何をしている荒巣ゥーっ!」
主の呼び掛けに、執事が現れ間に割って入る。

「おおおおおっ! 『無敵の軍身』っ!」
全身の皮膚を高質化し、降り下ろされるシシキリのナタを交差した前腕で受け止める。
金属質な衝突音が響き、ナタが弾き返される。

「ム、ム……無敵なァ……」
シシキリは腰にぶら下げた袋から何らかの粉を取り出して、荒巣の顔へぶちまける。
荒巣の眼に激痛が走り、視界が奪われた。

「おのれっ、毒草かっ!」
荒巣は前進しながら闇雲に拳を数発繰り出したが、当然当たるはずもない。
シシキリは既に荒巣の背後を取っていた。
ナタを口に咥え、荒巣の両腕を掴んで怪力で捩る。荒巣の肩がミシミシと悲鳴を上げる。
『無敵の軍身』による硬化は表皮のみ。関節技は有効なのだ。

銃声。銃声。銃声。続けざまの銃声。
左腕を失った相楽が片手で銃を連射する。
当然狙いは定まらないが『全弾命中弾勢』の効果によって次々にシシキリに着弾する。
しかしシシキリは被弾を意に介さず、腕を捻り上げたまま荒巣の背に蹴りを加える。
一発。両肩の骨が外れる音がした。
二発。ブチブチと腱の切れる音。
三発。荒巣の両腕が、胴体から完全に引きちぎられた。
シシキリは二本の腕を投げ捨て、硬化の解けた荒巣の後頭部をナタで一撃し致命傷を与えると、ようやく銃撃者に興味を示した。

「来るなっ! 来るな化け物ぉーっ!」
銃撃。銃撃。銃撃。片手リロード。銃撃。銃撃。銃撃。
全弾シシキリに命中するが、シシキリは平然と相楽に向かって歩いてくる。
血塗られた赤いナタが、月光を反射してぬめぬめと輝く。

『全弾命中弾勢』には重大な欠点があった。
必中の弾丸は標的の質量的中心目掛けて飛んでゆく。
つまり、対人射撃のほとんどは腹部付近に着弾し、脳や心臓のような即死部位にはまず当たらないのだ。
シシキリとて、不死身ではない。
首を切り落とせば死ぬし、心臓を抉れば長くは動けない。
だが、胴体を銃弾が貫通する程度の些事に何らかの感慨を抱くような繊細な情緒は、既に喪っている。

「ン、ンンー……二本目ェ……」
相楽の右腕が斬り落とされる。

「あ、ああぁ……やめ、やめて! お金なら幾らでもあげるから……やめて! 殺さないで!」
ガクガクと震えながら相楽は命乞いをするが、当然シシキリに通用するわけもない。

「オ、お金……お金なァ……三本目ェ」
作業的にナタが降り下ろされ、相楽の左脚が切断される。

「ぐ、ぐうう、何で……何で私がこんな奴に……」

「アー、……最後のいっぽんンー」
相楽の右脚を斬り落とし、顔面にナタを叩き付け息の根を止める。
その瞬間、相楽の身体は消え失せ、そこには小さな達磨があるのみとなった。
「ア、アハハァ……コロンダァ……」
シシキリは嬉しそうに達磨を腰の袋に納めると、荒巣の死体を達磨化する作業に移った。

コニャックとポニャックは何が起きたのか理解できず、ただ震える手を握りあっていた。

「さァて……ア、後は……餓鬼どもかァ……」
二個目の達磨も袋に納めると、シシキリは二人の猫耳少年達の方に顔を向けてニタリと歯を剥いて笑った。

少年達は、シシキリの目を見た。
その目は、研究所の狂った科学者達の誰よりも暗く、澱んでいた。



思えば僕は、弟に守られてばかりだった。
少ない配給の食料を取られた時に、怒ってくれた。
凍える冬の夜に、強く抱き締めてくれた。
痛い注射をいつも先に受けて、笑って「痛くなかったよ」と言ってくれた。
そして、さっきだって。

僕はポニャックに、兄らしいことをしてやったことが一度もない。
ポニャックは、僕を守って腹を銃で撃たれて動けない。
僕も脚を撃たれたけど、まだ動ける。
血まみれのナタを持った怪物が、笑いながら坂を降りてくる。
三日月は冷たく光っている。

「兄ちゃん……逃げて」
ポニャックの掠れるような声。
こんな時まで、僕を守ろうとしている。

「そんなのできない!」
僕は戦う決意をした。
最期に。最期だけは。兄貴らしいことをしてから死にたいんだ。

地面に落ちている石を、枝を、手当たり次第に怪物に投げつける。
そんな攻撃で止められるわけはなく、怪物はゆっくりとした足取りで降りてくる。
かかってきやがれ。
そんなナタは避けてやる。引っ掻いてやる。噛みついてやる。
死を覚悟した僕に、怖いものはなかった。
死ぬより怖いことなんて、あるはずないんだから。

だけど、怪物に向けて最後に投げたモノが何だったのかに気付いた時には流石にぎょっとした。
掴んだ時には太い木の枝だと思ったけど、その軟らかさが奇妙だった。

それは、シシキリが切り落とした金満寺相楽の左腕だった。
左腕がシシキリに命中すると、相楽の腕に着けていた『時計』が閃光を放った。

「ウ……?」
シシキリは小さな呻き声を上げ、雷に撃たれたように動きを止めて崩れ落ちた。
コニャックとポニャックは知るよしもないが、『迷宮時計』が新たな所有者の意識を一時的に奪いチュートリアルを開始したのだ。

「え……倒した……? 何だか解らないけど……今のうちに逃げよう!」
コニャックは弟に呼び掛けた。

「駄目……身体に力が入んないんだ……兄ちゃんだけで逃げて……」
腹部を貫通した銃創の痛みで、ポニャックは立ち上がることもできない。

「そんな話はなぁ……もうさっき終わっただろ!」
コニャックは動けない弟を背中に背負った。
銃で撃たれた脚が痛む。でも、ポニャックはもっと痛いんだ。だから、こんなのは痛くない!
そして、コニャックは痛む脚を引きずるように山道を降りてゆく。

ふもとの温かい街の灯りは、まだ遥かに遠い。
コニャックの脚がどこまでもつのかわからない。
ポニャックの怪我は、ひょっとしたらもう手遅れなのかもしれない。
目を覚ましたシシキリが、背後からまた襲ってくるかもしれない。
死神の鎌のような三日月は何も言わず、二人の猫耳少年に鋭利な光を投げ掛けるだけだった。

最終更新:2014年10月11日 20:24