速い。重い。太い。高い。
鋭い。長い。柔い。硬い。
―――――――――強い。
人は強いものが好きだ。
誰よりも迅く走る、誰よりも高く跳ぶ、誰よりも遠く投げる……といった身体能力は言うに及ばず。
象を見れば大きいと言うように、キリンを見上げれば長いと言うように、単に『並み外れた』という事象にさえ、人は憧れを見る。
しかし殊更人心を惹き付けるのは、何時の時代も『一番強いもの』である。
古代ローマ、パンクランチオン全盛の時代から――あるいはもっと以前、人が槍一本でマンモスを狩っていた時代から、
最強の称号はどんな宝石よりも眩く魅力的に輝いていた。
戦術的に『個』の価値が薄れた現代においても、その熱狂の遺伝子を受け継ぐ者は存在する。
例えばボクシングヘビー級チャンピオン。
例えば総合格闘技の世界王者。
例えば柔術のグランドマスター。
例えば大相撲の横綱。
連綿と続く武の山脈、その頂点に君臨する者達。
最強という名の幻想を追い続ける者達。
そしてここ希望崎学園にも、頂を極めんとする愚者が一人。
ーーーーーーーーー
「なんじゃあこりゃあああ!!」
希望崎学園魔人相撲部主将・葬儀龍梅太郎は、道場の有様を一目見るなり驚愕の声を上げた。
常に掃除の行き届いた土俵や稽古場は赤黒い血に染まり、如何なる理由か天井付近に設えられた神棚も木っ端微塵に砕かれている。
道場の中心にはうず高く積まれた屈強な男達……いずれも巨漢である……の小山。完膚無きまでに叩きのめされた相撲部の部員達だ。
その頂点には、片膝を立てて不遜に座す男の姿。
「貴様……道場破りかァ!!」
葬儀龍のひび割れた額に青筋が浮いた。3メートル近い巨体と相まって、小心者なら一目しただけで卒倒しかねない形相である。
だがその怒気を前にして闖入者は些かの動揺も見せる事無く、片手に持っていた黒革の手帳を閉じた。
両肩に引っ掛けた学ランをなびかせ、肉の小山から血濡れの土俵へ音も無く降り立つ。
着地の衝撃を和らげる前傾姿勢から、開襟シャツを押し上げる鋼のような胸筋を誇示するかのように背筋を伸ばし、
禍々しく見開かれた紅い瞳が葬儀龍の相貌を捉えた。口元には挑発するような不敵な笑み。
「随分遅かったな。主将が遅刻しちゃあ、下のモンに示しが着かねえんじゃ無えか?」
「貴様……最近調子に乗っちょると聞く、撫霧とかいう一年坊か。ワシの居ぬ間に好き勝手してくれたようじゃのう……!」
「人聞きの悪ィ事言うなよ、俺はただ相撲部の体験入部に来ただけだ。それをこのボンクラどもが可愛がりだのなんだのと抜かしやがるから」
撫霧は顎をしゃくって背後の山を示し、
「……ちっとばかし撫でてやった。全くつまらん、殺す価値も無い雑魚ばかりよく揃えたもんだなァ」
猛禽類めいた鋭い両眼を眇め、気炎を上げる葬儀龍を狂猛に嘲笑った。
「そこまで抜かしたからには、当然覚悟は出来ちょるんじゃろのう」
葬儀龍がドロ着と雪駄を脱ぎ捨てると、屋久杉を想わせるような巨躯が露となった。
常人の4、5倍はあろうかという分厚く巨大な掌、丸太のような腕とアフリカ象もかくやという太腿、
でっぷりとした胴体はしかし、その内に膨大な筋量を秘めている事を一目で窺わせる風格。
僧帽筋と一体化した首は羆の一撃も無傷で受け止めてしまうだろう。
脾肉を揺らし、2メートル90センチ340キロの超大型力士が血に染まった土俵に足を踏み入れた。
瞬間、葬儀龍の脳髄に稲妻のような衝撃が走った。それはいわばイメージの奔流であった。
魔人能力『闘神の庭』。その発動条件。半径5メートルを覆う突破不能の壁。脳内麻薬と身体強化。勝利条件。
敗北した撫霧の末路。
全てを一瞬にして理解した葬儀龍は湧き出る脳内物質の昂揚を感じつつも、その表情は苦り切っていた。
「戦闘中毒の狂犬め」
それは撫霧煉國を形容するにあたってこの上無く正確な一言であった。
自ら空間を封鎖し逃げ場を塞ぎ、敗北即死の条件を己のみに課した上で、
己と同等の膂力を獲得した30人からの相撲部員達を相手に3対1の勝負を10連続で行ったのだ。
およそ理解し難い闘争への執念。これを狂気と呼ばずして何と言おうか。
「おい、解ったか?理解したか?したな?なら闘ろうぜ。な?早く戦ろう。早く。早く」
撫霧は内なる闘志に身を焼かれたかの如く震え、乱杭歯を剥き出しにして唸った。
学ラン越しにも見て取れる程筋肉が膨張し、彫刻のようなシルエットが浮かび上がる。
彼は内なる闘志に突き動かされるように、獰猛な前傾姿勢を取った。
「早く」
「……フン、滑稽な程の殺気よの。だが土俵の上で仕合う以上はこちらの流儀に則って貰うぞ」
葬儀龍の右手が宙を掴んだ。あたかも土俵入り前の力士が清めの塩を掴むように。
「お互い既に入ってはいるが……まずは塩で土俵を清めるが慣習(ならい)」
言うが早いか、葬儀龍の右手が霞んだ。撫霧が身を伏せる。
高速で飛来したそれを引き締まった左腕が弾く。野獣めいた動体視力はその正体を捉えていた。
荒塩である!弾丸にも等しい速度で放たれた無数の荒塩が撫霧の制服を裂いたのだ。
その防御の隙を突くのが葬儀龍の狙いであった。
奇襲を凌いだコンマ5秒後、撫霧の視界を巨大な肉塊が塞いだ。
葬儀龍の十八番、一流投手の全力ストレートにも匹敵する速度のぶちかましである!
「グワッハッハッハ!どうじゃあ!ワシの『男達の狂塩(クレイジーソルト)』の味は~~!!たんと喰らえや~~!!」
がっぷりと組み、哄笑しながら猛烈な勢いで前進する葬儀龍。
2メートル近い撫霧の巨体も、葬儀龍と比較すればまるで子供だ。
しかしながら先程宙を掴む直前まで、葬儀龍の手は確かに空であった筈。ではあの塩は一体どこから生まれたのか?
その疑問の解となるのが葬儀龍の魔人能力『男達の狂塩(クレイジーソルト)』である。
彼は体内の塩分を掌に分泌し、更に超人的握力で握り込む事でその硬度を増し、危険な凶器を作り出していたのだ。
これこそが魔人相撲全国大会に置いて対戦相手の悉くを墓場送りにせしめ、その四股名の由来ともなった学生横綱・葬儀龍の必勝形であった。
相撲とは武道の一つである。向かい合った瞬間から戦いは始まっている。
である以上、不意打ちなど喰らう方の心構えが足りぬのだ――とは葬儀龍の主張である。
そしてこの形となってから生きて逃れられた者は、未だかつて1人たりとも存在しない。
「グワッハ……ヌ、ヌウウ!?」
撫霧の踵が静かに障壁に触れた。
突進は既に止まっていた……ほんの5メートル足らずの間にだ。
葬儀龍の豆粒めいた眼が再び驚愕に見開かれた。己の半分、いや三分の一程度の体重しかない男に、
真正面からぶちかましを止められた、その事実に。
「横綱ってのはアレだろ」
だぶついた胸に顔を埋めた撫霧が唸り声のような言葉を発した。
葬儀龍は構わず前進し、押し潰そうとした。出来なかった。相四つのまま、まるで地面に鉄の根が張ったかのように動かない。
「神なんだろ。神だから綱ァ締めるんだろ。その神を殺したら俺は何になる?」
「~~~ッ図に乗るんじゃあねえ!」
葬儀龍が投げを打った。崩しの無い強引な上手投げであったが、それでも並の魔人なら為す術も無く土を舐めるだろ。
問題は撫霧煉國が並の魔人では無かったという所だ。彼は投げのタイミングを読み、障壁に密着するように体を引いていた。
腰のベルトを掴んでいる葬儀龍の釣手はそのまま、引き身によって出来たスペースは蹴りを繰り出すに十分な余裕があった。
狙い過たず、撫霧の剛脚が葬儀龍の膝側面を捉え、砕き折った……かに思えた。
「阿呆が~~!!貴様の貧弱な攻撃がこのワシの肉体に通用すると思うてか~~!!」
一瞬の隙を見逃さず、その巨体に見合わぬスピードで葬儀龍が体を寄せ、撫霧の体を両腕でがっちりとホールドした。
所謂鯖折の体勢であるが、通常のそれと違う点が一つある。
撫霧の体を完全に抱え込み、足を地に付けさせていない事だ。
葬儀龍第二の魔人能力『肉襦袢』。
皮下脂肪の厚さが1センチ以上ある所ならば、あらゆる衝撃を吸収・無効化する能力である。
膝への蹴りもこの能力によって無効化されていた。
葬儀龍の体で能力の対象とならないのは顔面の上半分や足の裏といった極限られた箇所のみ。
しかしダメージが無いというだけであって、相応の力で押せば下がるし倒れもする。あくまで肉体へのダメージが消失するだけなのだ。
相撲でのメリットはつっぱりを多用する突き押し相撲に対して有利であるという事ぐらいだろう。
……完全に抱え上げられ、地に足の付かない状況にでも追い込まれない限りは。
撫霧は今、完全に生殺与奪の権利を握られた状態に陥っていた。
「このまま一気に背骨を折る……などという無粋な真似はせん」
葬儀龍が残忍な笑みを浮かべた。彼は瞬殺と同じぐらいに瀕死の獲物を甚振る事を好んだ。
「貴様にやられた部員全員の無念を味わいながら、ゆっくり往生せいや」
ぐいと前傾になると、撫霧の顔が完全に肉に埋れた。肉はぴったりと顔面に張り付き、呼吸もままなるまい。
苦しみから逃れようとしてか、撫霧の両腕がまわしから外れ、喘ぐように葬儀龍の肩口を叩いた。無駄な事だ。
例え砲弾を撃ち込まれようとも衝撃は届かない。ナイフを突き立てる事も、首への絞め技も意味を成さない。関節技も同様。
『肉襦袢』に一切の死角は存在しないのだ。
「おぐああああ!!?」
だからこそ、突如湧いた痛みに対応する事が出来なかった。
咄嗟に掬い投げに移行し、頭から土俵に叩き落さんとする。
撫霧はこれを自ら半回転する事によって回避、猫のようにしなやかな着地で衝撃を散らす。
「俺の貧弱な攻撃が……なんだって?臭ぇ肉に埋もれてた所為でよく聞こえなかった。もう一度言ってくれよ」
「こんクソガキがぁ……!」
犬歯をギラつかせ、傲然と嘲笑する撫霧。その右手中指はどろりとした赤に染まっている。
葬儀龍は流血する右眼を庇いながら憤怒に歯を軋らせた。
無論撫霧は『肉襦袢』を知らない。眼を狙ったのは純然たる殺傷本能である。
土壇場で迷わず的確な攻撃を実行する胆力、それを裏付ける勘の鋭さ――あるいは殺意の強さ。
それは常に一撃必殺が起こり得る魔人同士の戦闘で、撫霧が無敗を保ち続けている要因の一つだ。
「もう土下座したとて許さん!ブチ殺す!!」
葬儀龍がシンプルに宣言し、立会いの構えを取った。奇襲の際にはその隙の大きさから用いられなかった、
蹲踞姿勢から手を付き全力で突進する事だけに特化した構えを。
それを見た撫霧は、応じるかのようにこの日初めて構えを取った。
右拳は軽く握って頤(おとがい)に、左拳は挑発的に下げて腰に。
そして、心底の衝動を堪え切れず――凶暴に笑んだ。
両者の距離は約2メートル。互いに必殺の間合いである。
「来い」
それが合図となった。
葬儀龍が両手を付いた瞬間、巨体が朧と消えた。
少なくともこの場に意識のある相撲部員が居たとすればそのように見えただろう。
同時にコンクリート並の堅さを誇る土俵の土が大きく抉れた。
完全な立会いからのぶちかまし速度は先と比べて倍以上。新幹線の最高速度をも上回る。
この時点で葬儀龍は対策を終えていた。両腕をかち上げるようにして己の両眼と耳をカバーした。
これで『肉襦袢』の弱点は完全に塞がれた。能力で保護されぬが分厚く堅牢な額は、
ぶちかまし一発で大金庫の扉を打ち破る程の強度を誇る。また、この速度で咄嗟に後頭部を攻撃する事も不可能。
常ならば周囲の景色は流星の如く飛び、体感にして半秒も経たぬ内に敵の肉体は爆散している。
だがこの時、撫霧の動体視力を得ていた葬儀龍には、両腕の隙間から宙に舞う塵や血飛沫の一片まではっきりと見て取れた。
構えから攻撃態勢に入る撫霧。拳。アッパーカット?愚かな。
多量の脳内物質によって鈍化した時間感覚の中、葬儀龍は口角を吊り上げて嗤った。
アッパーの軌道上にダメージを与えられる箇所は存在しない。窮する余りに命を捨てたか。
……否。
撫霧の眼は、野獣の瞳は狂気に見開かれて赤々と燃え、禍々しく歪んだ口からは狂犬めいた乱杭歯が覗く。
その表情は、明らかに破れかぶれに陥った人間のそれでは無く。
獲物を前にした獰猛な肉食獣に酷似していた。
刹那、葬儀龍の背筋を寒気に似たものが走り抜けた。それがなんであったのか、最早誰が知る事も無い。
最大限の力を引き出す為に食い縛られた葬儀龍の歯列が、平拳(指の第二関節で打撃する握り)によって打ち砕かれた。
拳は唇を割いて咽頭を穿ち、更に奥の頚椎を破断しつつ葬儀龍の体ごと頭部を上方へと打ち飛ばした。
僧帽筋がかろうじて首と体を繋ぎ止めたまま力士は天井へぶち当たり、鮮血を撒き散らしながら土俵上に墜落した。
その時には、撫霧は既に土俵を降りつつ手帳を開き、『相撲部』と書かれた文字の上に血の横線を引いていた。
『闘神の庭』は解除された。葬儀龍の死体を一顧だにする事も無く、次に狙うべき獲物を思案する。
彼は死体には興味が無かった。
「…………ん?」
ふと視界の端に奇妙な物が映った。金細工の懐中時計である。
葬儀龍との戦闘中にこんな物は無かった。撫霧はいぶかしみ、血に濡れた時計へ手を伸ばした。
その瞬間。
「ッ!?」
何かが弾ける様な音と共に、情報の洪水が脳内へ流れ込んできた。
時計の由来。時逆順。魔人能力。迷宮時計。所有権。戦闘空間。
……戦いによる奪い合い。その結末。
理解を深める程に、撫霧の表情には底知れぬ笑みが広がっていった。
奇しくもそれは、彼の魔人能力が対象者に行う情報伝達と酷似していた。
「戦って、奪い取る」
撫霧は己の右掌を見た。シンプルな丸時計の刺青めいた模様が浮かんでいた。
奇妙な事に、時計の模様はリアルタイムで秒針を進めている。
そのすぐ真上には、人名と思しき文字の羅列。
錬鉄の元・魔法少女 キュア・エフォート。
撫霧は感覚的に理解した。この名の持ち主が、最初の相手だ。
笑いが堪えられなかった。狂獣は胸を反らし、この幸運を与え賜うた天に向かって大いに吼えた。