アナザープロローグ -あり得る状況の一つ

注:このSSはあくまで幕間です。採用するしないはSS執筆者の判断に任せられます。

夜の中庭を歩くのは、亡者のごとき人の群れであった。
その緩慢な、しかし奇妙に秩序だった動きは、ある種の行軍を思わせる。統率者のいない、死者の軍隊。それはコシヒカリに寄生された、有象無象の希望崎学園生徒の成れの果てである。

(悲惨な)
彼は、眉をひそめてそれを見下ろす。
(これが校外に解き放たれれば、未曾有の災害が引き起こされる)
――生徒会執行部、伊達友晴。
レスリング部所属。
その大柄な体躯と獣じみた形相とは裏腹に、慎重さと決断力併せ持つ男であるため、生徒会内部での人望はあつい。なによりその戦闘能力は、単純な接近戦ならば学園内部でも最上位に位置する。
彼は二階の窓から、じっと中庭を睨みつけている。ゆっくりと迫りつつある、コシヒカリに寄生された亡者たちを。

「――ふん」
伊達の傍らで、かすかに鼻を鳴らす音。
「馬鹿だよね、あいつら」
その声には、嘲笑うような響きがあった。伊達は顔をしかめる。
それとほとんど同時、先頭を歩いていた亡者のひとりが、何の前触れもなく爆炎に包まれて吹き飛んだ。少し遅れて、校舎を震わせるような轟音。夜の中庭が炎に照らされ、亡者たちの姿を鮮明に浮かび上がらせる。
彼らの顔にあるのは、無表情、あるいは無感情。
先頭の男が吹き飛んだというのに、亡者の行軍はすこしも鈍ることがない。それも当然か。彼らはすでに人間ではなく、動物ですらない。そう、

「ただの植物だから。簡単、簡単」
伊達は傍らを振り返る。
その顔に幼さの残る少女。着崩した制服。窓枠に腰掛け、足をぶらぶらとさせながら、空中で指揮棒らしきものを振っている。伊達は、それこそが彼女の能力の制約と聞いたことがあった。
「私のコンサートにようこそ! はは! 次はもっと派手にいってみる?」
――生徒会執行部、松永薫。
一年生にして生徒会入りを果たした、吹奏楽部の《天才》少女。その能力は、指揮棒をつかった遠隔爆破と聞いたことがある。実際のところは、伊達が見る限り、彼女は空気中を飛ぶごく微小な『何か』を操作して、爆破を引き起こしている。
おそらくは蚊か、蠅か、そのあたりの生物を能力の媒介に使っているようだ。
間違いなく強力な術者である――その精神性とアンバランスなほどに。彼女は爆発によって生じた炎を見て、ある種の興奮を覚えているようだった。

「油断はするな」
伊達は、いくぶん上気している彼女の横顔に釘を刺した。
「ただの植物ではない。《新潟県》のコシヒカリだ。緊急事態宣言の発令には、相応の理由があると考えろ。なにより、いまだ本体である道明寺の姿も捕捉できていない」
「はいはい。心配性だよね、伊達先輩」
松永は明らかに気分を害したらしく、伊達を睨むように視線を向けてくる。彼女は自分の『演奏会』を邪魔されるのが嫌いだ。
「将来、ハゲるよ」
それだけ答えて、松永は大きく指揮棒を振る。

また、夜の中庭に炎と轟音が放たれた。今度は先ほどよりもさらに規模が大きい。四、五人ほどのコシヒカリ亡者が吹き飛ばされ、焼かれ、粉々になった。
「植物だから、炎には弱いでしょう? 今夜は、私がいてよかったね」
なんらかの賞賛を期待したのかもしれない。松永は伊達を横目に見て笑った。しかし、伊達は首を振ったのみである。松永は不機嫌そうな顔を作る。そのときであった。

「――来る」
伊達の背後で、不意に声がした。
ひどく気配の薄い、小柄な男だった。松永よりもさらに身長は低い。異様なのは、赤いボロ切れのような布を身にまとっているところだ。その目はいっそ昆虫のように静かであり、この事態の只中にあっても、感情の欠片さえ感じさせない。
――生徒会執行部『臨時』役員、カササギ。
本名は伊達も知らない。執行部において、『臨時』役員とは傭兵以外の何者でもない。こうした状況に対応するため、ジョン・雪成が雇用契約を結んでいた男だ。
所属は手芸部。得体の知れない集団だが、あの部に所属するのならば、腕が立つのは間違いない――戦闘ではなく、暗殺を任務とするのなら、特に。能力は、『死』の概念を扱うとだけ聞いている。

(これだけか)
伊達は嘆息する。伊達と松永に、彼を含めて、三人。
このスリーマンセルが、道明寺羅門の『足止め』のために集められた先行部隊であった。ジョン・雪成の判断に対して、伊達は疑問を持たない。彼が三人で足止めをするように指示しているのなら、それが最善手なのだろう。ならば、やるしかない。
緑化防止委員本隊の本体の『三人』が、準備を整える時間を稼ぎ出す。

「あのさ、来るって、ナニが?」
伊達が考え込む間に、松永が尋ねている。
彼女は明らかに、この得体の知れない小柄な男を嫌悪しており、それを隠そうともしていなかった。彼女の性格からして、暗殺者というものを受け入れられないのだろう。
「道明寺のこと? あんたにソレがわかるわけ?」
「やけに歩みが遅い」
手芸部の男、カササギは彼女の問いに答えず、代わりに低く呻いた。ただ、夜の校庭の彼方を見つめているのみである。闇の中に何かが見えているのか。
「これは、……苗を増やしているか。この遅さは、そのためか」

「あのねえ」
松永は片方の眉をつりあげ、さらに指揮棒の先をカササギへと向けた。
「私、無視されるの嫌い。言っておくけど、私はあんたたち程度の」
「そこまでにしておけ、どちらも」
伊達は両者の間で、手を振って無駄口を遮る。
「仲良くしろとは言わんが」
「絶対やだ。伊達先輩、コレよりも私の方が百倍役に立つでしょ」
指揮棒の先端を、松永は小さく動かす。と、中庭で再び爆炎があがった。またしても何人かの亡者が吹き飛び、今度は跡形も残らない。その能力は、おそるべき破壊力といえた。

「必要ないって。根暗な手芸部とか」
「彼を同行させるのは、生徒会長の指示だ」
伊達の答えは、いつも明確で、揺らぎがない。
「あっそ」
つまらなさそうに、松永は顔を背けた。伊達から見て、彼女は強力な魔人だ。だからこそ自信がありすぎる。その部分さえ制御できれば、生徒会を支える戦力になるだろう。今夜を、生き延びさえすれば。
伊達はその不吉な思いを振り払うように、首を振った。気づいたことがある。
「それに、カササギの目は正しい。来たぞ。道明寺羅門――さすがに」
夜の中庭に、ゆらめく陽炎が立ち上った。伊達の目にはそう見えた。
「こうしてみると、なるほど……異質だ」

麦わら帽子と、油断ない農作業姿であった。
屈強な肉体のあちこちから、コシヒカリの稲が発芽している。亡者の群れの後方から悠然と、無人のあぜ道を征くかのように歩いてくる。
その無感情な瞳は、校舎二階から中庭を見下ろす、伊達たち三人の姿をたしかに捉えていた。その事実を認識したとき、伊達は全身に鳥肌が立つのを感じた。未知の脅威に触れる感触であった。執行部としての経験が、伊達にそれを警戒させる。

「松永!」
伊達は反射的に怒鳴って、窓枠に足をかける。
「援護しろ。雑魚を寄せ付けるな。そして、俺が死んだら、即座に撤退を開始しろ。――道明寺羅門。あの本体には手を出そうと思うんじゃない。他のザコを少しでも足止めして、これから到着する本隊の負担を軽減することに専念しろ」
「はあ?」
松永は不快げに肩をすくめた。
「逆でしょ。一人で楽しいとこだけ持ってくつもり? 援護するのは伊達先輩で、道明寺をやるのは私の能力――」
「カササギ、契約の履行を求める。続け」
伊達は松永の発言を最後まで聞くことなく、窓枠を蹴って跳んだ。中庭の闇へと身を投じる。寸分の遅れもなく、カササギもそれに続いた。赤いボロ布のような装束を翻し、追ってくる。

「俺が先に仕掛けて、動きを止める」
どっ、と重たい音を響かせ、まず伊達が地上に降り立つ。純粋な戦闘型の魔人である伊達の身体能力ならば、この程度の高度は『飛び降りる』というほどのものでもない。
「確認するぞ、カササギ。条件が成立すれば、お前の能力は必殺のものと考えていいんだな?」
「必ず」
返答は短かった。
こちらは着地に音も立てない。それと同時に、掌で何らかの手芸道具を閃かせ、手近なコシヒカリ亡者をひとり仕留めている。首と胴体を一瞬にして分断されて、うめき声もあげずに亡者は崩れ落ちた。

「よし」
伊達はうなずいた。走り出す。正面には道明寺。こちらを見ている。感情はない。
彼との直線距離上にコシヒカリ亡者が数名――手を伸ばし、伊達を掴もうとしてくる。が、問題にはならない。伊達は一瞬だけ身を沈めると、思い切り地面を蹴って前方へ跳ぶ。
中庭の土が激しくえぐれ、伊達の身体はひとつの砲弾と化した。
一人目のコシヒカリ亡者の頭部をラリアットで破壊し、二人目を回し蹴りで吹き飛ばす。三人目は、伊達が攻撃に移る前に、爆炎に包まれて吹き飛んだ。松永の能力に違いない。文句は言っていたが、真面目に援護するつもりはあるようだ。

ならば、自分は正面に集中できる。
伊達は加速し、姿勢を低くする。タックルの構え。道明寺は、緩慢な歩みを止めぬまま、正面からそれを迎え撃つ。
(まともに、正面から、俺とやる気なのか?)
このとき、伊達は怒りや恐怖よりも、レスラーとしての好奇心を感じた。農作業で鍛えた道明寺の肉体と、日々の練習で鍛えた己の肉体。ぶつかり合えば、果たして。
(面白い!)

激突の瞬間は、地面が震えるほどだった。
大型の重機がぶつかり合うような、およそ人間の肉体があげるものとは思えぬ、激しい衝突音が響く。伊達はその感触に、戦慄を覚えた。
「道明寺、貴様、この力は」
道明寺は、構えすらしていなかった。伊達に腰から組み付かせたまま、ただ立っている。それだけだ。しかし伊達は押せない。押し倒すことができない。
伊達の戦闘計画は、まず道明寺を地面に引き倒し、寝技に持ち込むことだった。そこからなら、自分の能力で自由を封じつつ時間を稼ぐことができる。
その見立ては、破綻した。

(だが!)
伊達は四肢に力をみなぎらせる。正面から道明寺の顔を睨みつける。
「――さて」
不意をつくように、道明寺が乾いた声をあげた。
「いまのうちに聞いておこう、生徒会執行部」
妙に不快な、脳裏を金属片で引っかかれるような響きがあった。サワサワと、道明寺の体から伸びる稲穂が揺れる。
「お前は、いや、お前たちは――我々を阻む障害となり得るか? お前たちの他に、まだまだ立ちはだかる者はいるのか?」
「だとしたら?」
伊達は全力で道明寺を押し倒そうとする。が、すこしも動かない。大地に根を張ったようだ。周囲からは、連鎖する爆音。松永の援護だ、それでいい。いま、コシヒカリ亡者どもに襲われれば、対処はできまい。
「だとしたら――」

道明寺羅門は、ゆっくりと右腕を伸ばしていく。
「お前たちという『外敵』を克服し、我々はさらなる力を手にする。品種改良を」
不意に、道明寺の腕の動きが加速した。拳ではなく、フック気味に掌を打ち付ける動き。およそ格闘術の概念とはかけ離れた、ただひたすらに無造作な、野生に近い攻撃動作である。
しかし、その腕には圧倒的な破壊力がみなぎっていることが、伊達には見て取れた。

(ここだ)
伊達は左腕を掲げ、その掌をブロックする。異音。インパクトの際に空気に火花が飛ぶような、あまりにも重たい一撃。防御した伊達の太い腕が、その一撃で大きく捻じ曲げられる。
砕かれた。
そう見えた瞬間、伊達の腕は柔らかな泥細工のように歪み、折れ曲がった。道明寺の腕に絡みつくようにして、逆にその肘関節を捕らえている。みしり、と、道明寺の腕が軋んだ。
(掴んだ!)

《クレイフォージ》と、伊達はこの能力を名づけている。
己の体を金属と化し、硬度、展性、靭性を自在に変化させる能力。鋼の肉体を目指し、過酷な鍛錬を己に課していた際に目覚めた魔神の力である。伊達はその真の用途について、肉体の硬度を増すことではなく、むしろ柔らかくすることにあると考える。
打撃を柔らかく受け止め、捉えたところで硬度を限界まで増強する。精密な能力の操作が必要とされる作業であり、一瞬の見切りが必要だ。
しかし、この方法で、捕らえてしまいさえすれば――いかにコシヒカリの力を得た道明寺といえど――生徒会執行部において、魔人としても最上級の腕力を持つ伊達ならば。

「自由にはさせん。しばらく付き合ってもらうぞ、道明寺」
「そうか」
道明寺は無感動につぶやき、伊達の腕によって捉えられた腕を引き抜こうとする。
だが、そう簡単にはいくまい。今度は伊達が攻めの手を打つ番だった。伊達は自由な右腕で、道明寺の頭部へ打撃を放つ。純粋な近距離戦闘型魔人である伊達の、振りかぶっての一撃であった。
「ああ。剛腕だな。格闘技をやらせておくには惜しい」
ごっ、と、道明寺の頭部に拳が打ち込まれ、ごくわずかに彼の表情を変化させる。

――笑っていた。
あるいは、ただ、目を細めただけだったかもしれない。
それでも伊達は、背筋が一瞬で粟立つのを感じた。

「良い環境だ」
道明寺は、顔面に打ち込まれた伊達の拳を掴んだ。
「我々は、今夜、この世界に生まれ落ちる」

道明寺の全身に力が漲るのがわかった。
伊達は咄嗟に右拳を軟化させようとした。しかし、それは間違いでもあった――次の瞬間、呼吸が奪われた。鋭い痛み。なにか、腹部に、
(なにをされた? 膝? いや、こいつの足は動いていない……これは)
理解する前に、一瞬の意識の空白があった。
それは、能力を発動させる前に、道明寺に致命的な一手を打たせるのに十分であった。

ばつん、と、右肩に異様な感触を覚えた。
激痛よりも先に、圧倒的な喪失感があった――右腕である。引きちぎられるのを、伊達はその目で見ることになった。
(……しかし、いま、この瞬間なら)
伊達は痛みに叫ぶ代わりに、その名を呼ぶ。
「カカサギ! ……やれ!」

道明寺の右腕は、いまだ伊達の左腕が捕えている。左腕は、いま伊達の右腕を力任せに引きちぎったところだ。両腕は封じた。今ならば。
カササギが道明寺の背後から跳躍し、襲い来るのが見えた。
彼はまとっていた赤いボロ布を、瞬時に脱いで広げている。どうやらそれは、衣服のようであった。痩せさらばえ、肋の浮いたカササギの肉体は、幽鬼のごとく舞った。

伊達にはその名を知るべくもないことであったが、これこそがカササギの能力。
《赤睡童》。
赤いちゃんちゃんこを着せた相手に、『死』という概念を押し付ける必殺の術。相手が魔であれ神であれ、生きているのならば、この能力を防ぐ術はない。たとえ、相手が異界《新潟》の存在だとしても。
だが――

「おお」
道明寺は天を仰いだ。
伊達は勝利への道を見た。道明寺の両手はふさがっている。振り返ることすら、この自分が許さない。体を密着させ、動きを封じようとする。ほんの、コンマ数秒間だけ、動きを止めれば、それで終わる。そのはずだ。
「いいぞ」
道明寺は、はっきりと笑った。
「我々は、成長している!」

その瞬間に、伊達は見た。
道明寺の背中から、無数の槍の穂先のようなものが突出した。それは背後から迫るカササギを、まっすぐ刺し貫く軌道であった。カササギは空中で体をひねり、それでもどうにか致命傷を避け、道明寺にその手中の赤い襤褸――『赤いちゃんちゃんこ』を着せようとした。
そして、彼の額から上が吹き飛んだ。
無表情な、昆虫のようなカササギの顔はそのまま赤く爆ぜ、主を失った体が地面に崩れ落ちる。

(見えた――稲! か!)
伊達は道明寺の背中から生えた、槍のごとき武器の正体を知った。
稲、である。
道明寺の体を苗床として成長するコシヒカリ、その瞬間的な成長の速度は、人間の肉を貫き、頭蓋を砕くに足るというのか。カササギの頭部を貫き、血に濡れる稲穂の先端は、まさに鋼の矛先のようである。不意に、急激な目眩に襲われる。
(そして、俺も)
伊達は己の腹部を見た。さきほどの鋭い痛みの正体がわかる。伊達の腹部にも、コシヒカリの稲が突き刺さっていた。それは自らめきめきと成長し、伊達の血を吸い上げんとしている。さらに根を張り、伊達の内蔵に食い込もうと。

自分が、他のなにかに搾取されようとしている感覚は、あまりにも冷たい恐怖であった。
伊達は即座に覚悟を決めた。もとより、この任務を受けた際に、己の中にあった覚悟だ。

「――松永!」
逃げろ、という意味だ。
生き延びれば、これから来る本隊の三人の役に立つだろう。コシヒカリ亡者の駆除をさせれば、十分に活用できる能力だ。
しかしその返答は、かすかな羽音と、あまりにも小さな爆音であった。

かっ、と、伊達の左腕を爆炎が包んだ。ごくごく小さな爆発。松永には、これほど自在に爆発の規模を制御できたのか。そのことは伊達にとって、かすかな驚きであった。伊達の腕だけを破壊する、限定された爆撃。
鋼以上の強度を持った伊達の腕が、粉々になって砕けている。道明寺はつまらなさそうに腕を離す。その手が、かすかに焦げているのが見えた。
(なんということを)
伊達は、爆発によって失い、代わりに自由となった己の左腕を見た。肘から先が欠けている。
そして、その腕が捕えていた道明寺は――

(最悪の展開だ)
伊達は振り返る。
「伊達先輩」
松永は、あろうことか、彼のすぐ背後にいた。指揮棒を空中に遊ばせ、いまだ己の能力への自信を意味する笑みを浮かべている。
「やっぱり私がいてよかったでしょ? 正直、ホッとしてる? さっさと保健室に行って、その腕、なんとかしてきなよ」
松永は片目を閉じて、指揮棒を大きく振るった。
「こいつは、私がぶっ壊しておくから」

「やめろ!」
もはや手遅れではあったが、それでも伊達は怒鳴った。空中をかすかな羽音が飛ぶ。やはり、なんらかの小さな虫を媒介にして、松永の能力は成立しているようだ。
だがそれらの虫はついに、道明寺の周囲に近づくことさえなかった。
自由となった道明寺は、

「え? こいつ――」
松永がかすかに呟いた。
地面がえぐれ、風圧が伊達の全身を打った。
あるいは、伊達ならばかろうじて反応できただろう。しかし、魔人とはいえ近接戦闘に優れているわけではない松永にとっては、不可避の速度と圧倒的な質量であった。
伊達が次に見たのは、その腹部に抜き手を深々と打ち込まれた松永の姿である。
「遅い能力だ」
道明寺がかすかに呟いた。
続いて、間髪を入れずに放たれる裏拳が、松永の頭部を破壊する。彼女には回避も、防御を試みることすらできなかった。松永は状況を理解できないまま、簡潔な打撃音が響き、その思考を終わらせた。

「――そこで、お前は」
道明寺が振り返る。
「いま少し、我々の糧となるか? より過酷な環境を、我々は歓迎しよう」
「道明寺」
伊達は自分が雄叫びをあげたことに気づいた。前へ踏み出す。彼に残された攻撃手段は、ほとんど何もなかった。道明寺は一瞬だけ瞑目した。
まさか憐れんだわけでもあるまい。


――そして、道明寺は完膚なきまでに破壊された、伊達の巨体を見下ろす。
「少し時間をとられたか」
道明寺は空を見る。黒々として、明ける気配のない夜空であった。
周囲のコシヒカリ亡者どもは、緩慢な行進を続けている。彼らには感情も思考もない。ただ、水と土と、太陽の光を求めるのみだ。
夜が明けてすぐに、この地に住むすべての人間がこうなる。
「ゆくか」
誰にともなく、道明寺は声をかけた。
おそらくは、己の体の内にて渇望のうめき声をあげる、コシヒカリへ向けたものであっただろう。
(この先の、短い旅路に――)
道明寺は摩耗した精神で考える。いつから自分はこうなっていたのだろう。コシヒカリのことを知ったときか。父を殺したときか。それとも、園芸の名家に生まれ落ちた、そのときからか。
(虚無が横たわっていようとも)
道明寺羅門、園芸の修羅、コシヒカリを宿す者は、破滅へと向けてゆっくりと足を踏み出した。


To Be continue……
最終更新:2014年08月06日 22:53