夜魔口 靴精プロローグ


僕が生まれ育ったのは、酷いゴミ溜めのような所だった。

物心ついた頃には、親と呼べるような大人は周囲にはいなかった。
捨てられたか、殺されたか、それとも僕が無意識に記憶を封じているのか。
とにかく、思い出せるのは自分と同世代の子供同士で寄り添って過ごした日々だった。
いや、一応兄貴分というか……世話を焼いてくれる人はいた。
今の僕があるのは、半分以上その人のおかげだ。


「まぁたハデにやられたな。ダイジョブか?ん?」

僕の住む街――平たく言えば貧民街、スラムの類だったが――
そこでは日々の食べ物にすら困る暮らしだった。

寝床は、崩れかけて雨風が辛うじて凌げる廃墟。
食糧は、近隣の店のゴミ箱からかっぱらった残飯。
天敵は、病気持ちのネズミや怖いギャング、そしてくそったれの警察。

生きるために盗み、脅し、時には殺す。そんなことが当たり前の風景の中で、
僕はとびきり弱く、臆病で、泣き虫だった。
できることは、せいぜいパンを一切れつかんで、逃げ帰るくらいだけど……
それさえもロクに成功せず、たいていはお店の人に捕まってボコボコにされるか
別のグループに目をつけられて戦果を奪われるかのどっちかだった。
そして傷だらけになって逃げ帰った僕を、あの人は――責めもせず、慰めてくれた。

「……生きて帰ってきてくれりゃそれでいいよ。
 生きてりゃそのうちなんとかなる。死んだらおしまいだからさ」

あの暗い、鬱陶しい街の中で。
あの人だけは、明るい月のようだった。


その月は、狼の群れにあっさり喰われた。

理由は何だったのか、ハッキリとは分からない。
たぶん、僕たちを養うために、あの人は僕たちの知らないようなムチャをしていたのだろう。
そして、狼の尻尾を踏んでしまった――そういうことだったのだろう。

ともあれ、あの人と僕たちの仲間は次々に、あっさりと、殺された。
そんな中で、僕は――逃げた。全力で逃げた。
ひたすら逃げた。がむしゃらに逃げた。一心不乱に逃げた。
逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。
逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。
逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。

……共に飢えも渇きも分かち合ったはずの仲間も、
暖かさや生き方を教えてくれたあの人のことも、見捨てて。
敵を討とうという勇気一つ振り絞れないまま、それでもあの人の言う通り。
『生きてればなんとかなる』と信じて。


……雨が降る中、僕はふらふらと車の前に飛び出す。黒くて立派な車だった。
車は僕にぶつかる直前で止まり、僕は走り疲れて倒れ込む。
車から降りてきた大人が、大声で怒鳴りながら僕に近付く。
その後ろから、ひときわ立派な服を着た大人が静かに近付く。

僕は、汗と血と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、その大人に泣きながら訴えた。

「おねがいします、だずげて」

僕の意識はそこで途切れ、目が覚めたときには――


~~~~~~~~

「…… ……なんだ、夢、か…… わああああ!?」

自習室の片隅で目を覚ました僕は、腕時計を見て悲鳴を上げた。

親父……組長の計らいで、こうして学校に通わせてもらってる以上、せめて夜魔口の名に恥じないよう
頑張らないといけないのだけども、これまで勉強なんてものに縁がない人生を送っていたせいで
当然の如く赤点連発となり、通常の補習だけでは勉強量やペースが追いつかないため
生徒会の許可を得て夜遅くまで自習室を借りて次週することになったのだけど……

……その途中で、まさか日付が変わる寸前まで寝てしまうとは思わなかった。
幼い頃の夢を見たのも、そのせいだろう。さっさと目を覚ませ、という無意識の暗示。

「はあ、随分遅くなっちゃったな……」

いくら生徒会の許可をもらっているとはいえ、明らかに非常識な時間まで学校に残ってしまった。
早く帰らないと、若頭になんて言われるか……いや、もうお説教は確定だろう。
ヘタしたらケジメだってあり得る。……怖い、怖い怖い怖い!

「あ、でも生徒会に自習室のカギ返さないと……ああー……もうー……」

よだれまみれになった机を拭いて、散らかした計算ドリルやノート、筆記用具を片付けながら
僕はこの後の展開からどう逃げるかを考えたけど……結局、素直にカギを返却して速やかに帰り
その足で組の屋敷に戻って頭を下げることに決めた。
生徒会長に提出する反省文の文面を考えながら、僕は自習室のドアを施錠して生徒会室に向かった。


……結論から言えば、反省文は書く必要がなくなった。
その代わり、僕は――もっと面倒で厄介な課題を与えられることになった。
最終更新:2014年08月03日 22:48