『 Let it be a fine day tomorrow. 』



暗闇の中、もぞりと這い出す影があった。
影は、手近な机から何かを掴み取る。
そして音を立てないよう細心の注意を払いながら、

静かに元の場所へと――戻った。




「うっ、うわああああああああああああああああああああああああああ!!」

それはほとんど悲鳴に近い声だった。
道明寺羅門の進撃開始からおよそ1時間。学園中で幾度となくこのような声が上がったことだろう。
だが今回のこれは、少し事情が違う。

涙目で叫ぶその少年は空中で足を突き出した姿勢をとっていた。
目にも留まらぬ彼の跳び蹴りは、そのまま目の前の異形の群れを砕き、貫く。
群がるように並んでいた哀れな5体のコシヒカリ感染者は、肉塊となって崩れ落ちた。

遅れて、少年が着地を試みる。だが失敗した。肩から落ちた少年は床を滑り、埃を巻き上げる。
「やった……やったのか!?」
少年は即座に起き上がり、自らの砕いた敵を振り返った。

「ちょっとやめてよ、それだとコイツらすぐにでも起き上がってきそうじゃん」
「いや、大丈夫。やったよ」
肉塊は動かなかった。かわりに埃の向こうから現れたのは、2人の女子生徒であった。

「あたし達でやったんだ」


植物である魚沼産コシヒカリは人体に寄生することで、緩慢とはいえ機動力を得た。
さらに視覚をも得たことで、より精密に目的へ向けて移動する事が可能となっていた。
植物の目的。それは土、光、そして水である。彼らはそれを目で探し、目指す。

即ちそれは、視覚による錯覚が通用するという事を意味する。

そのコシヒカリ寄生体の一群は、新校舎脇に魅力的な大池を視認した。
月光を反射して水面がきらめいている。水質も良さそうだ。
だがそのオアシスは、コンクリートの地面に『印刷』されたものにすぎなかった。

人体を乗っ取ると視覚に頼る割合が大きくなる、という仮説は正しかった。
愚鈍なる子苗たちはまんまと釣られたのだ。彼らは池の淵まで接近し、ようやく植物の本能から
それが水場でない事に気がついたのか足を止めた。だが既に、遅い。

「いっ、行っていいんだな!?」
「ああ。あたしの2秒を預ける。頼んだよ。……行けっ」

――“跳”(ピョン)!
闇の中、少年の足元に漢字の刻印が光った。
少年が大きく跳躍する。そして彼が跳び蹴りの姿勢を取ると同時、
痩せた少女が手をかざし、空中の少年に照準を合わせた。息をフゥ、と鋭く吐く。

『命知らずの悪戯部屋』。彼女の吐いた息の速度と、少年の跳躍速度をスイッチする。
そこで少年は唐突に加速した。例えば人間の咳の速度は、時速にして200km以上にもなる。
「うっ、うわああああああああああああああああああああああああああ!!」
叫びもするだろう。理不尽な加速である。

会心の跳び蹴りで亡者たちを打ち砕いた後も、動悸は止まなかった。
「うん、不安だったけど、ここまで綺麗に決まると流石に気持ちがいいよね」
男装の少女は気楽な事を言う。この状況で快感を覚えられるタフさがうらやましい。

「そう。自信は持っていい。あたし達は、やれるんだ。やるしか……ッごほ! かは」
痩せた少女は言いながら咳き込み、血混じりの痰を吐き捨てた。手が震えている。
本当に大丈夫なのだろうか。……いや、今は言うまい。

やるしかない。その点に関しては、同意できる。


生徒会室を訪れた夜魔口靴精は、半ば無理矢理組み込まれた『決死隊』のメンバーを見て
正直不安しか覚えなかった。無理もない。

男装の少女、甘葛モリオンの能力は物体の表面の模様を変える補助能力だという事だった。
読書家で知識は豊富なようだが、特に戦闘経験はなさそうだ。
痩せた少女、逝谷しおりの能力は人やモノの速度を変える補助能力。
杖をつかなければ歩けないほどの重病人であり、肉体に関しては戦闘以前の問題である。
そして少年、夜魔口靴精の能力もまた、靴に特性を付与するという補助能力であり。
極道一家の一員でありながら、専ら養われの身である彼には戦闘経験と呼べるものはなかった。

生徒会長はこれを世界の危機と言った。敵は強大であり、既に風紀委員の精鋭が全滅しているとも。
靴精は自分の頭の程度は自覚しているつもりだが、それでもこれは即断してしかるべきだろう。
誰にでもわかる事だ。これは、無謀を通り越している。これは、

「――無理ですよ!」
思わず声が出た。甘葛が、逝谷が、ジョン・雪成がこちらを見る。

「攻撃能力者が一人もいない! いったいどうやって戦うっていうんですか。
……僕だって、役立たずだ。甘葛先輩は嫌じゃないんですか? いきなりこんな、」
「私は構わない」

甘葛は静かに答えた。最初は戸惑っていたはずの彼女も、強盗犯への復讐という条件が
生徒会に受理されると、とたんに腹を括ったように落ち着いた。
「でも!」

――ビシリ。
唐突に乾いた破砕音がした。靴精の背後の壁だ。穴が穿たれている。
彼は言葉を飲み込んだ。顔の真横を何かが通過した感覚があった。
遅れて「ペッ」と何かを吐き捨てる音『だけ』が届き、靴精の頬を冷たく撫でる。

「お望みの攻撃能力だ。これで満足したか?」
逝谷が意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見ていた。吐血を、音速で飛ばしたのだ。
彼女の能力にかかる制約は先ほど聞いた。それを今使える精神状態というものが彼には理解できない。
靴精の背をぞっとしたものが駆ける。

「現実の話をしよう」
やや間を置いて、ジョン・雪成は仕切り直した。
「あと6時間を切った。夜明けとともに人類は滅ぶだろう。直視して欲しい。これは客観的事実だ。
……この中に、明日を迎えたい者はいるか?」
逝谷以外の2人が頷いた。

「では、死なせたくない知人はいるか?」
これは全員が頷いた。
「ならば動機は十分だ。肝に銘じて欲しい。黙っていれば全て失う。人も、明日という時間も」

靴精は唾を飲み込もうとした。だが、口の渇きがそれすら許さない。
生徒会長の言葉は突飛な内容の筈なのに、明らかに説得力があった。事実の重みがあった。

いや、わかってはいたのだ。ただ理解したくなかっただけだ。己のするべき事を。
救われるのをただじっと待っているだけでは、この世界は終わる。
拳を握る。今の家族を思い浮かべる。……死なせたくない人がいる。
自分を生かしてくれた人の死を前に逃げるのは、一度だけで十分だ。

「……わかりました。やりますよ」
靴精は自分の内心を確かめながら、なんとかその言葉を、言った。

「感謝する」
ジョン・雪成は頭を下げた。真心に満ちた、見事な礼だった。
しかし顔を上げた彼は、既に指揮官の顔に戻っていた。
「まずは、英気を失わないでほしい。君達は魔人能力者だ。逝谷君も見せた通り、やりようはある」
彼は3人の決死隊を見渡す。六つの瞳は、いずれも意志ある光を保っている。
世界を救うための、最も重要な第一段階は越えたと言っていい。ここからだ。彼は改めて息を吸う。

「では、次に手段の話をしよう」


5体のコシヒカリ亡者を退けた3人は、学園中央「希望の泉」近辺を横切る形で移動していた。
彼らの全身には、おぞましき稲穂の模様が貼り付いている。
甘葛の能力『テレアート』による迷彩である。もはやこの学園敷地において、この模様こそが
最も迷彩として機能するのだ。それはある意味で絶望的事実でもあった。
心臓に自信のない者は、決して今「希望の泉」そのものを視界に入れないよう努めるべきだ。
学園最大の水場である泉がどのような状態にあるか。それは人を狂わせるに足る景色だろう。

闇夜の保護もあり、3人の姿は十二分にその地獄に紛れていた。亡者に襲われることも無い。
先の亡者も、誘い込んでまで撃破する必要があったのかといえば疑わしい。
だがチームにとって、あれは絶対に踏むべき手順だった。
戦えないから隠れるのと、戦える事を認識した上で隠密を選択する事は決定的に違う。

彼らは亡者として不自然でない程度の緩慢な速度で歩行していた。
逝谷も杖をつかずに、である。低速とはいえ自然な歩みであった。彼女の足元には漢字が浮かぶ。
“歩”(テクテク)。
靴精により付与されたこの特性は下半身にかかる負担を劇的に軽減し、いかなる路面をも
踏破させる程のスムーズな歩行を可能にする。

「素晴らしいよ、ヤマグチ君」
逝谷が小声で賞賛した。
「まともに歩ける事が、こんなに気持ち良いなんて。あと一ヶ月早く君と出会いたかったよ」
「いやあ。地味な能力ですよ」

「私の能力も褒めてくださいよ。頑張ってるんですから」
甘葛が口を挟んだ。
「うん、モリさんも見事だよ。見事なまでのコシヒカリのキモさの再現度だ。マジキモい」
「ち、ちくしょう。私だって嫌でしたよ、こんなキモい模様把握するの」

彼らの肌には質感まで感じられるかという程クリアな画質で稲穂が印刷されていた。
甘葛の左目に備わった精密視力の賜物である。さらに一方彼女の右目は、驚異的な遠視力を持つ。
「で、索敵範囲に道明寺の姿は?」
「今は、ない。このあたりは制圧済みたいだしね、道明寺は他に行ってるのかも」

各々の持つ個々の技能は細々としたものに過ぎないが、それを十全に発揮すれば質の高い行動はできる。
彼らが未だ道明寺と接敵せずに済んでいるのは、ある意味で自然なことでもあった。
何としても、可能な限り道明寺を避ける必要があった。今は、まだ。

「よし、このまま進もう。目的地はそう遠くない」
「私にはもう見えてますけどね……ん?」
甘葛が左目をつむり、さらに右目を細めた。その目的地の方角に何らかの影を認めたようだ。
「あれは……でも、コシヒカリって稲じゃ」
「! ふっ、伏せて!」

同時、殺気を感じた靴精が叫んだ。3人が伏せると、その頭上を飛来物が通り過ぎる。
そして彼らの背後で、左右で、次々に着弾音が響き、亡者の群れが吹き飛んでいった。
巻き上がる粉塵。逝谷が顔をしかめる。亡者のフリをしたのが逆に仇となったか。
生徒会にも呼ばれないまま、生き残り抵抗を続けている者がいたのは盲点だった。
3人は伏せたまま会話する。

「仕方ない、交渉だ。大声を出したくはないな。まずは距離をつめよう……ヤマグチ君」
「僕ですか」
「君しかいない。なに、モリさんは知らないが、あたしなんて30kgそこそこしかないから。頑張って」
「私だってスリムですよ」
「え? え?」
「両手に花ってことだよ。安心しな、援護はするから」
「え?」

靴精は促されるままに、逝谷と甘葛を両脇に抱えることになった。
やむをえまい。この3人はチームとして致命的な欠陥がひとつあった。機動力に個人差がありすぎる。
彼は立ち上がりながら、しぶしぶ己の靴に触れた。能力を発動する。
――“走”(ダダダ)!

地面を蹴る。靴精は加速した。
単にスピードが速いというだけでなく、意識せずとも路面に合わせて最適な走行フォームを
選んでくれ、小回りも利く。まるで下半身が独立し、全自動で走行しているかのような感覚。

周囲には、いまだ着弾し続ける何らかの攻撃があった。
「! ヤマグチくん、そこ右!」
「は、はい!」
甘葛の指示で、靴精は素早く回避する。甘葛はその遠視力ゆえ、かなり遠い段階から
敵の弾道を予測できていた。戦闘において「目」の重要性は言うまでもない。だが数が多い!

「右、右、左、伏せて! すぐ左……あっ!」
「う、うわっ」
かわしきれない砲弾が迫る。この3人には防御能力も耐久力もない。一撃でも貰うわけにはいかない。
「1秒やる! かわせ!」
右脇に抱えられた逝谷が手を前に出した。『命知らずの悪戯部屋』!
すぐさま、彼らに迫った砲弾は減速した。背後で、緩慢だった亡者の1人が急加速した。
靴精はその隙に砲弾を掻い潜る。

悪くないコンビネーションだ。3人は各々に手応えを感じた。
目的地が見えてくる。職員校舎を出発し、希望の泉を抜けた先――部活棟が。
そして部活棟を背に立つ、攻撃者の存在もまた、はっきりと見えた。
その者は異形であった。両肘から先が巨大なツタ植物となっており、先端には奇怪な花が咲く。
到着した靴精は息切れしながら、両腕の2人を降ろした。

「亡者らしからぬ動きとは思ったが……魔人がまだいたのか?」
攻撃者は緊迫した汗をかき、疲労が見て取れた。ずっとここを防衛していたのか。
「そ、そうだ! 我々は生徒会の……」
逝谷が袖の腕章を強調し、交渉に入ろうとする。だが相手は目の前の3人が生きた生徒と知ってなお、
迎撃の姿勢を崩しはしなかった。
「悪いが部活棟は今、立ち入り禁止だ。いかなる者であれ」

「その腕……園芸部? あんたら、あの道明寺に与するっていうの?」
「逆だ。部長は園芸の理に反している。我々が裁く。邪魔はさせぬ」
「ならば、協力したい。参考までに、いかにして奴を倒すのか、話を――」
「問答は無用だ。去らないのなら我が造園術の肥料となって貰おう。森怨石の裁きを受けよ!」

園芸部員とおぼしきその者は譲らない。両腕の巨大花を掲げる。あれが『大砲』か。
すると砲弾は種子か、実か。
砲撃がくる。逝谷は警戒する。
だがその戦闘は、長くは続かなかった。

「森怨石……?」
耳慣れぬ低い声だった。靴精が尻餅をついた。視線の先には甘葛の顔。
その目は別人のごとく見開き、血走っていた。

「テメェ……それをどこで手にいれたァ!?!」


園芸部の部室は、異様の一言で表しきれぬ空間だった。
室内花壇、ビニールハウス、魔法陣、スコップ、人骨、大量の書物、薬品、祭壇。
そこまでは一般的な園芸部でもよく見られるものだったが、周囲に生い茂る禍々しい植物群は、
やはり規格外の大きさと生命力を誇っていた。全国を制しただけの事はある。

そしてこれだけの大園芸を成し遂げるには部長・道明寺羅門の偉大なる園芸力と、
肥料に力を与える新種の鉱物、『森怨石』が不可欠だったのだという。
森怨石。当時無名の地質学者であった甘葛博士が発見し、園芸界で一躍話題となった鉱石である。

「つまり、テメェはこれの出所については全く知らねえと」
「然り……これは道明寺よりも先代の部長がいずこからか入手したもので……我々は何も」
部室へ甘葛らを案内しながら、醜く顔を腫らした園芸部員は弱々しく答えた。
3人、というより甘葛に敗れた彼は、生徒会のパンデミック阻止への協力を
しぶしぶ受け入れさせられた格好である。

森怨石の名を聞いてからの甘葛は迷いがなかった。
相手の網膜に直接、先ほど見た逝谷の血痕を『印刷』した。眼前が血に染まれば誰だってうろたえる。
そして混乱した園芸部員の懐に飛び込むと上半身に取り付き、顔面を何度も殴打した。
一瞬の変貌と衝動、時の運が成した成果であった。よくもまあ成功したものだ。

「まあ、結果オーライかな……」
逝谷はぼそりと呟いた。靴精はまだ無言で慄き、震えている。
彼女等の目的地は始めからこの園芸部室だった。
餅は餅屋。コシヒカリへの対抗策ならば、何らかのヒントが必ずそこにある。
そして僥倖といえるレベルで、直接的な対抗策がそこにはあった。

アンチ・コシヒカリ・ウイルス。
あらゆる植物を即座に根絶せしめるという毒素を持つという、まさしく対道明寺の切り札だ。
この世界の危機に際し、彼ら園芸部員は道明寺を阻止すべくウイルスの本格培養体勢に
入ったところだという。
デリケートな細菌であるため、外部者の立ち入りは制限する必要があったというわけだ。

「植物を研究し、生死を操作可能なものとし、あらゆる生命を掌握する事こそ園芸の本懐」
防衛に戻った砲撃手に代わり、副部長を名乗る男が説明した。
「あまねく命をコシヒカリによって『死』に塗り替える事は、その理念に反する。
だから初代部長はあれを封じたというのに……道明寺め、一体どうしたというのだ」

「で、阻止できそうなんですか、パンデミックは」逝谷が問う。
「いや、未だ途上である……保管していたウイルスは少量だ。あれほど育ったコシヒカリを
根絶するには、十分な数まで培養する必要がある。だが想定よりも進まぬ。
森怨石を混ぜ込んだ腐葉土にウイルスを住まわせれば、可能な筈なのだが――」
「こんなに砕いたら意味ないじゃない」

「えっ」
口を挟んだ甘葛に一同は絶句した。普段の彼女に戻っている。
「断面から養分が逃げるんですよ森怨石は。最新の学説読んでないんですか? 園芸部のクセに」
甘葛モリオンは1日15冊以上のペースで父の研究に関する書物や論文を読み漁り、記憶する。
森怨石というその一点に限れば、彼女の総知識量は本業の学者を上回る。

「ヨモギの葉で包んでもいないし、トマトジュースを与えてもいない。全然使いこなせてないじゃん」
「な…………」
トドメに甘葛は、腐葉土の中を覗き込んだ。
「ほら、コイツらも元気ないですよ。こんなに動きが鈍い」
彼女の左目は光学顕微鏡に匹敵する精密な観察が可能であるのだ。ウイルスの状態も、解る。

副部長は戦慄した。この者、園芸の申し子か。
抗し得るかもしれない。彼女の知識と力があれば。
「わかった……言う通りにしよう。是非協力して欲しい」
「事が済んだら、その石の出所を調べて貰う。それが条件ね」
両者は握手を交わした。

――いつまで経っても成せぬ復讐に、虚無感を覚えた事もある。
全てが無駄ではないかと疑い、気持ちが朽ちかけた事もある。力無き復讐者は哀れなだけだ。
これだって偶然だ。全くの偶然だが。しかし今、復讐のため蓄えた力が、活かせる場所がある。
その事実は、ただただ手応えのない歩みを続けてきた彼女の心を、いくらか救った。
(……父さん)



「さて、少しは元気になったか? あたし達にやる事がないわけじゃないぞ」
「ちょっと驚いただけですよ……もう、大丈夫です。何ですか? 防衛ですか?」
結果として蚊帳の外となった逝谷と靴精は、部屋の角で座りこんでいる。

「ウイルスが完成したところで、道明寺にブチ込めなきゃ意味がないだろう。
その方法を考えるのは――まあ、あたしがやってみる。ヤマグチ君は、そうだな」
彼女はスマートホンを掲げた。何らかのアプリが起動されている。

「この先は、それぞれがどれだけ能力を使いこなせるかにかかってる。
――だから君には、修行でもしてて貰おうか」
「修行?」
「重要な修行だよ、君の能力にとっては」

顔を上げた靴精は、スマホの画面を見て青ざめた。
表示されていたのは容赦なき辞書アプリであった。恐ろしい。コシヒカリの次くらいに。
逝谷はこの日初めて、歯を見せて笑った。
「漢字のお勉強だぁ」



いくらかの時が過ぎた。

「ひと段落したんですか? 研究」
「ヤマグチ君」
カップを抱えて休憩する甘葛に、靴精は話しかけた。彼も休憩を宣言して逃げてきたのだ。

「軌道には乗った、と思う。ウイルスもだいぶ元気になったし、数も増えた。
アンプルに入れて1時間くらい寝かせれば、実用レベルになるんじゃないかなあ」
「おお、いい感じじゃないですか」
「うん、いい感じ」

甘葛の表情はわずかにほころんで見えた。先ほどの「スイッチが入った」時とはまるで別人だ。
優しく細められた銀色の美しい瞳を見ていると、震えるばかりだった靴精も、いくらか安心できた。
確実に、希望は見えてきている。暗黒が全てではない。一筋の光はある。

研究が順調に進むにつれ、園芸部員たちの空気も軟化しつつあった。
絶望的状況で絶望しない。それだけでも、あの魚沼産コシヒカリに抗えているような気分になれた。
奇妙な一体感と高揚感があった。そんな時間が続いていた。
窓の外に、鬼の面を宿した背中が躍り出るまでは。


仮眠を取っていた逝谷は轟音に目をこじ開けられた。
阿鼻叫喚は既に始まっていた。背面跳びで窓の外に現れた巨躯が、無慈悲な蹴りで壁を破っていた。
筋肉質な肉体。油断なき農作業服。全身から生やしている稲穂。背中の鬼面。
道明寺――羅門!

甘葛を見る。彼女は首を横に振った。まだウイルスは使えない。
逃げ延びなければなるまい。必殺の一撃を決められるその時まで、あの道明寺から。
だが状況は思考する間すら与えてはくれない。

道明寺は左右に両手を広げた。すると両腕から無数の矢が放たれるがごとく、
おそるべき数の稲穂が爆発的に成長し、壁を、天井を抉った。
園芸部室を覆いつくしていた、造園術の粋を集めて育て上げた屈強たる植物たちが、
瞬く間にコシヒカリに侵食されてゆく。種としての格が違うのだ。
決死隊の3人や部員たちは机や棚に隠れて、その第一波をやり過ごすしかなかった。

「繁殖は上手くいっている」
道明寺は口を開いた。
「種としてこれほど喜ばしい事はない。人間にここまでの悦楽はないだろう。やはり
人間の本能は鈍っている」

彼の乏しい表情には、わずかな快感が感じられた。口からは上気した呼気が漏れる。
「本能というものはいい。霊的ですらある。繁殖が満たされると次に――
害敵の存在が、どうしようもなく気にかかるようになったのだ」

その言葉が意図するところを、逝谷は正確に読み取ることができた。
叫ぼうとした。だが口を開く事すら、間に合わなかった。それだけの速度の差があった。
一瞬の後には既に道明寺の姿はそこにはなかった。巨体は甘葛の隣にあった。
「疼きの正体はこれか」

不幸であったと言うべきだろう。この時、ウイルスのアンプルは甘葛の左手にあった。
道明寺の脳にまで根を張ったコシヒカリが警鐘を鳴らし、彼に知らせていたのだ。
天敵の存在を。ウイルスの所在を。一流の生物は、危機察知能力も規格外だ。

道明寺の腕がゆらめいた。
靴精が何事かわめきながら、甘葛の左腕を引いた。彼らにできたのは、たったそれだけだった。
嫌な音がして、甘葛の右腕が千切れ飛んだ。言語の体をなさぬ悲鳴が上がる。
「ヤマグチーーーーーーーーーーーっ!!」
逝谷がようやく叫んだ。靴精は極限の中、己が何をすべきか理解した。今一度、自分の靴に触れる。

“踏”(ズズーン)!!

靴精は床を思い切り踏みつけた。部屋が、部活棟全体が激しく揺さぶられる。
さしもの道明寺の肉体も、わずかに前後に揺れた。その、後ろに傾いたタイミングが唯一の機だ。
「吹っ飛べ!!」

逝谷が手をかざした。道明寺が後ろに揺れる速度と、この地響きの音速を、交換する。
道明寺の巨体は視認すらできぬ速度で吹き飛び、すぐに見えなくなった。
だが逝谷は能力の使用をやめない!

5秒。
10秒。
15秒。

それだけの時間が経過したところで遠くのほうから衝突音が聞こえ、床がまた少し揺れた。
旧校舎にでもぶつかったか。だが音速で飛ばしてなお、これだけの時間がかかるのだ。
コシヒカリと道明寺がおそらく何らかの抵抗をし、耐えたのだろう。だが退けた。アンプルも無事。

靴精は慌てて甘葛を見た。右肩を抑えてうずくまっている。出血が多すぎる。すぐに処置が要る。
さらに遅れて盛大な吐瀉音が響き、靴精は振り返った。
逝谷が明らかに危険な量の血液を床に吐き散らし、倒れた。全身が痙攣している。
靴精は今さら、恐怖に襲われた。足が震える。すぐにでも、2人を介抱しなければならないのに。
だがこの足の震えを止める漢字を、彼は知らなかった。


甘葛と逝谷が揃って目覚めるのには、1分を要した。正確には、靴精が起こしたのだ。
酷だと思ったが、一刻も早く方針を決める必要があった。道明寺はいつ戻るかわからない。
そしてそれを考えるのは、靴精では出来ない事だった。
その事を説明すると、逝谷は青ざめた顔で「よく起こした。それでいい」と言った。

園芸部員たちは怪我人の介抱を手伝ってくれたが、彼らもまた道明寺の初撃によって被害を被り、
ほとんど壊滅していた。戦力としても期待できないだろう。
あと1時間弱。時間を稼ぎ、道明寺と再び相対し、ウイルスを打ち込まなければならない。
引き下がる事は許されない。そのための方策が要る。

「アンプル持って、2人で逃げな。あたしはここに残る」
逝谷の出した案はそれだった。
「ヤツは本能でウイルスの場所がわかる。ここにはウイルスの親株もある。
ヤツはたぶん、まずここに戻る。あたしが……時間を稼ぐ。それで、ウイルスが十分に育ったら」
彼女はうっすらと笑った。
「後は、頼む」

靴精は唾を飲み込んだ。肯定するしかないように思われた。
彼は横目で、痛みと出血で憔悴しきった甘葛を見た。彼女は呼吸を切らしながら、逝谷に確認した。
「死ぬ気、でしょ」
「わからないよ。あたしの病気は運命に働きかける病気だ。
今の寿命がたぶんあと10日くらいだから……そういう運命だとしたら、
案外、首切られても生きてっかもね?」

「嘘だ」
甘葛は即座に言い切った。
「あんた能力で、その運命をねじ曲げてるじゃないか。寿命は絶対じゃない。
魔人能力が勝ってるんだ。つまり……道明寺だって、あんたを殺せる」
靴精には甘葛が苛立っているのがわかった。

「だったらどうした。あたしなんか放っといても死ぬんだよ。ここで死ぬのはあたしの役目、」
「――テメェは!!」

甘葛は突然、声を荒げた。
彼女の目は見開き、血走っていた。「スイッチが入った」時の顔だった。
今は、父の話が出ているわけではない。だが彼女の脳裏には今、亡き父がいた。
「好き勝手言いやがって。私はずっとムカついてたんだよ。
テメェが死んで当然みたいなツラしてんのも、『決死隊』って名前も」

「なっ……」
「テメェも会長も、死ぬって事を何もわかっちゃいねえ。
終わりなんだよ! 死んだら! 世界が滅ぶのと何も変わらねえんだよ」
そうだ。父が死んだあの時に、父のいた幸せな世界は、滅んだのだ。

聞きながら靴精もまた、胸が詰まる思いだった。
確かにあの日、月が狼に喰われたあの時、世界はひとつ滅んだのかもしれない。
甘葛は残った左手で、逝谷の胸ぐらを掴んだ。
襟から白い首が覗き、彼女の残り少ないアザがよく見えた。

「テメェ、死なせたくない知人がいるっつったな」
「ああ、彼女さえ生き残ってくれれば、あたしは……」
「本当にそれでいいのか。死んだら会えないんだぞ。
もう何も伝えられないんだぞ。父さんは、もう何も言ってくれない! でも、」

「テメェはまだ生きてんだろうが!!」

甘葛は肩で激しく息をしながら、逝谷を離した。そして相手の首元を見ながら、
「テメェ、自分の首、見えてねぇだろ」
「? そりゃ、鏡でもなきゃ……」
「それ見て、もっかい考えろ」
「?」

甘葛は疲労でへたり込みながら、隣の壁を示した。
汚れた白壁に、直線のアザが『印刷』されている。能力で逝谷の首元を映したものだ。
あと1センチ少々しか残っていないアザ。しかし見えるのはそれだけではなかった。
アザの延長、少し下。先ほど、能力で消費するまではアザのあった位置だ。
そこには文字が書かれていた。アザがあれば隠れて見えないだろう、小さな青い文字で。



『だいすき』



【12】

膝から一気に力が抜けるのがわかった。
顔面があつくなるのがわかった。
心臓が激しく動き、呼吸が苦しくなったのがわかった。
あたしが何にもわかっちゃいなかった事が、わかった。

お姉ちゃんの字だ。
書いたんだ。最後のあの夜に。わざわざ青いペンで。
お姉ちゃんを振り切って好きなように生きたあたしが、最期の最期に気づいて、帰る事を願って。

昔からお姉ちゃんは、ずるい。
あたしと同じくらい自分勝手で、それを綺麗な瞳で押し通して、
なのに全然嫌いになれなくて、ずるい。

今回も結局、お姉ちゃんの勝ちだ。
だってもう既に、会いたくなってる。生き残りたくなってる。
あたしは、死ぬわけにいかなくなってしまった。

ちくしょう。なんて事してくれたんだ。台無しだ。
涙も、嗚咽も、全然止まってくれない。
しばらくの間あたしは、考えるのも忘れて泣き、叫んだ。



――地響きがした。
低い、唸り声のような振動音が迫る。それが何者か、考えるまでもなかった。
靴精は誰に指示されるでもなく、両脇に2人を抱えあげた。
「……ちょっと?」泣きはらした顔で逝谷が尋ねる。

「今は逃げる時ですよ。細かい事は、後で考えましょう」
「そんな適当な……追いつかれたらどうする。勝算は」
「ここで死んだらそれ以前の問題ですよ。まずは生き残らないと。まア……」

靴精は、笑いはしなかった。ただ、恐れもしなかった。
彼もまた、甘葛のおかげで目が覚めた。足の震えは止まっていた。
「生きてりゃ、なんとかなりますよ」


道明寺の三度目の襲撃で、ついに彼らは完全に捕捉された。

何度も場所を変え、迷彩で身を隠し、全身を稲穂で埋めたり、真っ黒に塗って夜闇に紛れたり、
校舎一面に自分たちの姿を印刷して霍乱したり、思いついた事は何でもやった。
だが追跡から逃れるたびに道明寺の感覚はより研ぎ澄まされ、速度は上がり、
ついに新校舎の廊下にて、真正面に立ち塞がられた。

「補食とは、植物の行いではないが」
道明寺は呟いた。
「もはやそんな区別に意味はないか。この星の生命は、ただ一種のみになるのだから」

靴精は左脇に抱えた甘葛を見た。激痛に耐えながら能力を使い続けた彼女はもはや限界だったが、
なんとか首を縦に振った。必殺の『武器』が完成したという事だ。戦う時が来たという事だ。
靴精は左足を持ち上げた。逝谷が前を向いた。

“踏”(ズズーン)!
 +
『命知らずの悪戯部屋』!

先程と全く同じ手だ。
校舎の床が激震し、道明寺の巨体が吹き飛んだ。壁を破り、一瞬で教室に達する。

だが。この魚沼産コシヒカリという究極の生命は。
生態系の頂点たりえる力を持ちながら慢心せず、安住せず、常に進化する。
道明寺の足元がざわめき、大量の稲穂が下に伸びた。床を破り、掘り進み、根を張る。

5秒。
10秒。
身体が加速し、肉体を音速で運ぼうとする。コシヒカリは進化し、抵抗し、耐える。
逝谷が吐血し頭を垂れた。能力が止む。道明寺の巨躯はついにほとんど移動しなかった。

それでよかった。

靴精はこのとき既に、右の靴を宙に放っていた。
靴紐にはウイルスのアンプルが結びつけられている。
その靴には、左の靴とは別の漢字が刻印されていた。

――“脱”(アシタテンキニナアレ)。

絶対にスムーズに靴が脱げ、
絶対に真っ直ぐ、一切ブレない軌道で、あらゆる風圧や障害物を無視し、
絶対に靴の向きが変わらず、足裏を下に向けたまま飛ぶ。
100%完璧な靴占い。たったそれだけの特性だ。

覚えたばかりの漢字であり、まさか使う事になるとは本人も思っていなかった。
しかし命中精度という一点において、彼らにこれ以上の技はない。

そして道明寺は。音速に耐えうるよう根を張った今の道明寺は、
この致命的な靴を即座に回避することができない。
この靴は手足や稲穂で打ち落とすこともできない。
わずかでも触れれば、そこからウイルスに侵食される。

“明日”を開く靴が、人類の敵にいよいよ達しようとする。

甘葛は復讐を成し遂げるため、
靴精は一度救われた命を捨てぬため、
逝谷は最期に姉と再会するため、
それぞれ明日を必要とした。
だが。

(――成程)
(ヒト種最後の抵抗、確かに受け取った)
(しかし……遅かったな)
カチリと、壁の時計が音を立てた。


<AM6:00>


(我々の勝ちだ)
道明寺羅門と魚沼産コシヒカリもまた、世界を塗り潰すために、明日を必要としていた。

地平線がうっすらと光る。
刹那、教室の全ての窓に黒色が『印刷』された。咄嗟の反応だった。
あたりが再び闇に落ちる。まだ道明寺は光を得ていない。

(いや、間に合う)

道明寺は背中から決死の稲穂を射出し、窓を破った。靴が達するにはあとコンマ数秒ある。
彼の能力は光合成。万物の恵みたる日の光さえ、わずかでも浴びれば、彼に明日は訪れる。
手を伸ばす。

割れ窓から差し込んだ一条の光は、
しかし、ついに道明寺に届く事はなかった。

光が、減速している。



【1】

目の前を歩いていた蟻が、光速で駆け抜けて消滅した。
あたしの人生も、端から見ればそんな感じだったのかもな、と思った。

日の出とともに《時が先か》は、余命をひとつカウントダウンする。
だからあたしはもう、能力を使っちゃいけなかったのに。
最後の最後にこうなるんだもんなあ。

まったく、本当に、寿命が縮まったよ……!


モリさん。
ヤマグチくん。

お姉ちゃん。

――ごめん。



ゆっくりと暗中を進むその陽光は、もはや明らかに光速ではなかった。
そして救いの光明が道明寺に届くより先に、呪いの靴がコシヒカリに達した。
彼は全身を灼かれた。そしてあまりにもあっけなく、崩れた。




【0】




翌日はよく晴れた日だった。
喪服を着た女性が、棺に話しかけている。

「なんであんたが泣き顔なのよ」
これでは、あの時と逆だ。

「私が泣けないじゃない。ばか」