菖蒲の出立・幕間SS


 「おかえり、菖蒲(あやめ)」
 静岡旅行を終え、帰還した菖蒲を出迎えた声の持ち主は古ぼけたベッドの傍らに立てかけられた巨大な画架(イーゼル)の上に腰かけていた。
 画架、すなわちキャンバスに住まうもの、回りくどい言い方をした。つまりは絵の中の一糸まとわぬ少女が動き出すと……。
 「よっと」
 ヴィデオの中から抜け出す有名霊のそれをもっとカジュアルにした感じと言えば、わかりやすいだろうか。画架は既に彼女の住まいが占拠していたので、代わりにベッドに腰を落ち着ける。キィと音が鳴った。

 シーツだけは新品に取り替えられているが、よくよく見れば雑然とした部屋だ。
 部屋の隅などには野菜くずが捨てられ、なぜかあちらこちらに木炭が散らばっている。乾いたジャンクヤード、それを思わせる、そこが最近名を売り出し中の謎の部活『暦』支部の部室である。

 革命の香りがした。
 ナポレオンの第一帝政によって終結を迎えるまで欧州を長き戦乱で包み込んだフランス革命は現代にも続くメートル法をはじめとする革命的制度を導入したことで知られるが、消え去って行ったものも数多い。
 その一つ『フランス革命歴』から名を取り、妃芽薗学園にて組織された集団『カランドリエ』。
 その中でも三月下旬から四月下旬までを担当する彼女の名を芽月(ジェルミナル)・リュドミラと言った。
 貧民窟の少年王、正確に言えば戯作にかぶれたブルジョワの考えそうな、と厳しい但し書きをつけねばならないかもしれないが。真実としては、そういう難癖を封じ込めるのが、彼女と言う名画であった。
 乏しい胸の盛り上がりは未成熟な肢体と合わさって裸婦と言うには色気が足りないが、隠すことなく堂々と佇み、猥雑さを感じさせない。清廉さを感じさせる絵に描いたような、いや。
 絵に描いた美少女である。

 『夜(よ)の室(むろ)に 絵の具かぎよる 懸想(けさう)の子 太古の神に 春似たらずや』
 思わず口ずさんでいた。愛の歌とはかくも直截的なのかと、思わず顔が赤くなる。絵の具で出来た君はどうしてこうも美しいのか。

 彼女は見知った菖蒲が近寄るのを見るや即座に抱き寄せる。
 突然だが、芽月(ジェルミナル)は添い寝相手を欲していた。人の体温が恋しかったのだ。
 巻き付いたシーツは水辺に佇む構図から飛び出て来た少女に濡らされ、その輪郭を際立たせる。

 「申し訳ありません。服は……脱いだほうがよろしいでしょうか?」
 流石に手馴れたものである。人工探偵が生殖機能を持たない、と言うのは副次的であるが、まぁ、つまりは、そういうことである。
 芽月はくすりと笑って少しベッドの上の間隔を開けると、頼まれていたことを説明し始める。
 「冗談。私達『カランドリエ』は出来たばかりの組織と言うこともあって知名度も資材もまだまだと言ったところだけど、丁度いい人材がいたよ」
 「その方は?」
 「収穫月(メスィドール)。希望崎の園芸部に所属していた元園芸者で、サボテンしか愛せない性格破綻者。名誉の戦死を遂げた瑠璃丸君(しんゆう)の供養のために籠ってたから聞き出すのは苦労したよ。
 何でもあっちには【魚沼産コシヒカリ】が封印されていて、あっちの部長さんはそれに執心らしい。で、恐れをなして逃げ出してきたと。おや、随分積極的だ。嬉しいね」
 気付くと、肌が密着する距離にいた。慌てて離れるのも、探偵としての誉に関わる。よって。
 「いいえ、絵の中の人の体温が気になったものですので、ございます」

 「ふふ。有難う。私も生まれて百年以上、ずっと持ち主から添い寝をせがまれてきたものだから、逆はそうなくて新鮮な気持ちだ」
 「わたくしも……素敵な経験が出来るでしょうか?」
 一歳九ヶ月、平均を考えるとあと三ヶ月でイキオクレになってしまう。古い考えと言われるかもしれないが、生憎探偵の価値観には平穏な家庭を営む、と言うのも立派な選択肢として入っているのだから。

 「君は焦り過ぎだよ。それ以前に、私は百歳を越えたおばあちゃんだ。
 けれど私は絵画(アート)。百年を経た付喪神……、と言えば聞こえはいいけれど、この界隈ではまだまだ小娘に過ぎないよ。美術館に幽閉されているお偉方を見る度にそう思うのだから。
 見方を変えなさい。そうすれば悩みが晴れることは多い。
 確かに君は人である前に探偵として生まれてきたのかもしれない。だが、人の価値観を忘れてはいけない。
 たとえば三十七歳、一児の子持ちなのに見た目は中学生とか、になると『えー、うっそー』とかになるはず。だけど、これが百四十三歳、となれば、ああそういうものかと現実味が薄れて納得だろう?」

 だから目の前の、薹(とう)が立つと言うには少々無理がある娘……、いや探偵さんが一歳児であったとしても、納得するしかないのだ。うん。
 「お言葉は大変ありがたく頂戴します。しかし、そんな方が本当にいらっしゃるとは思いませんし……、事は時間の問題ではないような気もするのです。有難うございました」

 僅かな手がかりを得て飛び出そうとする探偵、未熟者には危険な兆候?
 いや、わかっていたことだ。わかっていて教えた私が悪い。
 だが、私には止められそうにない。探偵に伍するなら探偵、劣るが怪盗を用意するのが定石と言うものだ。殴り合い、殺し合い、を除き、非探偵が話し合いで探偵を説得できるとは思わない。
 と……、言うのが探偵菖蒲の持論なんだけど、どうしてこうも探偵にこだわるのかな?

 ただ、無理に止めようとして穏便に済むとも思わない。
 菖蒲は職能集団や生き様としての探偵とは違って種としての探偵だから。それも集団の危機や過ぎた先鋭化としてではなく、人類が作り出してしまった探偵。
 チャラ男やホストとは違って、人類が何世紀かを先取りして手に入れてしまった完全な形での人造人……探偵。
 探偵の真似事をして九分の五殺しになったアマリ―の二の舞はごめんだった。
「私は見ての通り、絵、だろう? 同胞との横のつながりは広い方だったから怪盗に盗まれそうな名画を遠藤家に教示する機会は今まで何度かあった。
 幸か不幸か、本格派が怪盗と対峙する例は乏しいけれど、何も自分が人間ではない探偵だからと言って備品の身分に甘んじることはないんだよ。私も遠藤には大恩があるのだからここで説得させてもらう。
 【魚沼産コシヒカリ】なんて危ない橋は渡らずにここにいるんだ。生徒となって、この学園(おり)に閉じ込められたままでいなさい。
 形だけでいい、何なら同じ遠藤さん家の柊さんと同じく風月(ヴァントーズ)と内縁の……探偵【注:第三の性(さが)である探偵に、妻とか夫とかいう呼称は似合わない】になればいい。
 そうすれば、戸籍のない君たちも晴れて――いや、それが不義理と言うなら私から部長に頼んでもいい、あの人なら――」

 「申し訳ありません。芽月様ではわたくしの伴侶(ワトスン)にはなれません」
 要は体を張って止めろと言うことか。
 けれど、全身をもって探偵の心を繋ぎとめるには私の存在(なぞ)全てを投げ出しても無理だろう。
 自分自身、そして探偵と言う種の根幹に関わる謎に挑もうとする探偵を前にしては、下手な説得をして物わかりのいい大人を演じるのがお互いを傷つけずに済む、冴えたやり方なんだろう。
 「風月様は早急に男女の別をつけるようにお願いなさいませ。いくら『探偵』とは言え、柊も八つを数えた頃、不憫でなりません」

 「生きて、帰ってきなさい。その言葉は本人に言ってやらないと、私は一生柊さんに睨まれてしまう」

 『春みじかし 何に不滅(ふめつ)の 命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ』
 私の胸は高鳴らない。それがわかったのだろう、探偵は少し悲しそうな顔をした。

 「生きて帰るには、『ライヘンバッハの滝』が必要となるでしょう。約束は出来かねます。相手は【魚沼産コシヒカリ】なのですから。
 不躾なことを申し上げれば、どうか見守っていてくださいませ。それと、こちらはいただいていきます」

 濡れた袖で衣服の乱れを正して立ち上がり、同じく部の備品のビスケット缶を袂に入れる。
 あんなものと、菖蒲が同じ括りであることが腹が立った。
 ここまでの非礼を詫びるように菅笠を取り去ると、ぴょこんと顔を出した菖蒲の花が可愛らしげに揺れていた。その顔は見えない。
 部屋から出るまでその手は掲げられたままだった。
 さよなら、菖蒲――。

 「探偵ってなんなんだろう――?」
 探偵が部屋から出た途端に言葉が漏れていた。探偵とは職業であり、生き様であり、そして種族なのだけど……。
 菖蒲がそのすべてを兼ね揃えているとしても――それで説明がつくとは思えなかった。なぜなら私は依頼人ではない。ワトスンでも警察でもない。もちろん探偵でもない、単なる証言者だったからだ。