【神】
もとより「神」は「善きもの」「悪しきもの」の両側面を持ち合わせ、善悪の区別はないもの
【神社の造り】
・本殿まで下り坂 → 祀る側が「低く」見ている神社
・本殿までに川を渡る→ 「川を渡る=彼岸」地続きではなく、向こう側という意味
【格式】
記紀による社格
天社 |
天神を祀る |
国社 |
地祇を祀る |
延喜式神名帳による社格(8世紀に神祇官の管轄におかれていた神社)
式内社 |
延喜式神名帳に記載されている |
官幣社 |
祈年祭(二月)に際し、神祇官(都)から奉幣される |
||
国弊社 |
祈年祭に際し、国司(国庁)から奉幣される |
||||
式外社 |
延喜式神名帳に記載されていない |
|
明治政府による社格
官国幣社
|
官幣社 |
官幣大社、官幣中社、官幣小社 |
例祭に際し、官幣が奉幣される |
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別格官幣社 |
歴史上の人物を神とし祭る |
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国弊社 |
国弊大社、国弊中社、国弊小社 |
例祭に際し、国幣が奉幣される |
|||
府県社以下 |
諸社 |
府県社、郷社、村社、無格社 |
【神紋】 出雲系 …亀を神にしていた(海に関する氏族)?
「カメ」=「カミ」「甕(カメ)…蛇神を飼育する箱」
・出雲大社
「二重亀甲に剣花角」
・熊野大社(島根)
「亀甲に大字」
・八重垣神社 ・佐太神社
「二重亀甲に剣花角(出雲大社と同様)
・神魂神社
「二重亀甲に有」 → 分解すると「十」+「月」=「10月」
神有月に神様が出雲大社に訪れる前に集合する神社
・美保神社
「二重亀甲に三の字」 → 亀甲に横線が三本
「二重亀甲に渦雲」 → 亀甲の中心から五本
二紋合わせて、八雲立つ出雲のイメージか?
・天ノ穂日命神社
「二重亀甲に剣花角(出雲大社と同様)
【出雲とは?】
「出雲国四大神」…出雲には四柱の神々がいる
・所造天下大神(オオクニヌシ) 杵築大社 (出雲大社)
・熊野大神 熊野大社
・佐太大神 佐太御子神社(佐太神社)
・野城大神 野城神社 (能義神社)
「古事記」においての大國主の物語
①オオナムチが苦難・試練を克服して「大いなる国主」となる物語
②八千矛神の妻問い物語
③少彦名神との協力による国造りの物語
④葦原中国の主として、天照大神に国譲りする物語
①こぼれ話し
・素兎(=宇佐伎 =「宇佐の女性」)
・ワニ(=王仁氏)
③こぼれ話し
・ガガイモの実の舟(=羅摩舟(かがみふね))で蛾の皮の服を来てやってきた、少彦名神
→カカミ =カカ身 =蛇身
・少彦名神の名前を教えてくれた「崩え彦(くえびこ)」
→案山子のことであり、案山子は「カカ子」という語源の説がある
④こぼれ話し
・朝廷からの理不尽な侵攻により「国譲り」をし、「顕世」から「幽世」へと住む場所を遷した
→祟り神へ転じていく
・日本書紀「祟神天皇(10代)記」には、その時代に人々が大國主を祀らなくなってしまったとある
→出雲臣の朝廷に対する抗議(あくまで朝廷側の目線から成り立つもののため)
・古事記 「垂仁(11代)記」には、ホムツワケ伝説がある
→息子が言葉を話せない。白鳥を見て一度話したが、その白鳥を捕らえたところで、話すことはなかった。
その理由を占ったところ、出雲大神の祟りであるとの結果
出雲神というのは祟りのシンボルのような扱いをされている。
そのため出雲国造は「出雲神」という祟りを扱うため、特別な優遇的な扱いを受けてきた。
・応神(15代)天皇が崩御した際、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ:15代目の皇子)が
倭屯田と屯倉を掌ろうと、担当の出雲臣の祖:淤宇宿禰(おうのすくね)を蹴落とそうとするが、
淤宇宿禰の機転により、後の仁徳天皇に進言し未然に防ぐ事が出来た。
→意宇(おう)氏となり、出雲臣を称するようになったと考えられる
(島根出雲には意宇氏がおり、熊野大社を祀る一大勢力だったのを、
朝廷の後援を受けた出雲臣がのっとり、そこを出雲とする =出雲大社遍歴の歴史)
→屯田=現:桜井にあったと言われる
・もともと奈良県出雲には誰がいたのか?
・長スネ彦が住んでいた …「書記」神武東征に徹底抗戦した、鳥見の豪族
=スサノオ …共に朝廷の策略により黄泉の国へと流されてしまっている存在
・東征の先導を、ヤタガラス …賀茂建角身(かもたけつのみ) …賀茂氏の祖先神
ニギハヤヒ = 物部氏の祖神…長スネ彦の妹を娶っており、それを朝廷は寝返らせた
↓ 何かの繋がりが…?
天之穂日命 = 出雲臣の祖神…もとより出雲にいた人たち
石上神宮 …祭神:出雲武雄(いずもたけお)が祀られてるのが一つの例に見られる
・ヤタガラス …賀茂建角身(かもたけつのみ) …賀茂氏の祖先神
=三輪に入ってきた大和朝廷とのは異なる葛城王朝があった
雄略天皇も畏れる一言主神も鎮座しており、古代最古の精錬所があったとされる
野見宿禰と当麻蹴速の戦いは、葛城王朝VS大和朝廷(元出雲の人々を前面にした布陣)
【天ノ穂日命】
「古事記」 …「五の男神」の一柱
「記紀」(朝廷側) … 高天原から葦原中国に平定しに行ったのに、大國主の懐柔を受けて寝返った神様
「出雲国造神賀詞」… すぐに高天原に報告し、御子神「天夷鳥(あめのひなとり)」に「経津主」を添えて
葦原中国を平定したとしている神様
【出雲臣とは?】
・天照とスサノオの間の誓約の際に生まれた八王子一柱の御子神「天ノ穂日命」を祖とし、
出雲国意宇(おう)群を本拠とした氏族。ちなみに土師氏も同じ神を祖神としている
「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」
→【 記紀 】 スサノオ の詠んだ和歌 (解釈)心が浮き浮きした歓びを表現してる
→【出雲国風土記】 八束水臣津野命の詠んだ和歌
→国引き(出雲の土地をふやしていった神)
(解釈) 八雲(蜘蛛)たちが立ったぞ、八重垣を造って取り囲め。妻(女性)も逃がさないような八重垣を。
・京都 山城国出雲郷に「出雲臣」の収容所があった
出雲から山城国に連れてこられた人々の住んだ土地で、斉明天皇(650年)頃から、この土地に来たとされている。
・場所は山城国 愛宕(おたぎ)群とされ、賀茂川を挟んだ一帯を指す。大化(645~650年)に設置されている。他にも「出雲郷」と呼ばれた場所は「島根県簸川郡」「島根県八束郡」にも存在していた。
・「出雲郷」=「アダガヤ」 「アタ」=「仇」「徒」「異」「他」などを意味する、悪い意味を含む文字
「ガヤ」=「~の家」「~の谷」 などを意味する、住んでいる土地などの意
現在の島根県東出雲町には、出雲郷(アダカエ)地域に、阿太加夜(アタカヤ)神社がのこっている
そしてこの土地は、島根県八束郡の土地と同じ場所にある。
・元明天皇の和同元年(708)~聖武天皇の神亀三年(726)の間19年間に、
山城国愛宕群出雲郷から逃亡した人々の数は250人近くに登る。
国造級の出雲臣でさへ抑留されており、逃亡した人の大半が女性を占めていた。
・出雲寺(794年の記述には、既に存在していなかった)が6世紀に、上御霊神社付近に建立された
別名「怨霊寺」とも呼ばれていた寺であり、平安時代 藤原実資「小右記」の中にも跡地として書かれてる。
・出雲大神宮(現京都 亀岡) 「丹波国風土記」によれば
「元明天皇和銅年中(708年~)、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社なり」
そのため、出雲大神宮は「元出雲」と呼ばれている。
・江戸時代ごろまで「出雲の社」といえば、現在の出雲大社ではなく、こちらの出雲大神宮を示していた
現在の出雲大社(島根)の名称は明治時代からで、そもそもの名前を杵築大社としていた。
・出雲大神宮 丹波国一宮 元出雲
・籠神社 丹後国一宮 元伊勢
→ 祟人天皇(10代目天皇)の御代に天照が大和国笠縫邑から豊受大神と共に遷られ、4年間祀られ
その後、天照は長い流浪の末に伊勢に落ち着かれるようになった。そして籠神社を元伊勢と呼ぶ
【出雲大神宮】
・場所 …現:京都府亀岡市千歳町
・社格 …旧国弊中社
・祭神 …御影山(神奈備) ・大國主命(又は 国常立尊) ・三穂津姫(高皇産霊尊の姫神 と大國主の妃)
・歴史 …祟神天皇(10代)時に再興された、古い神社(祟神天皇が大國主を追い出した時期にリンク)
市内を流れる保津川は、もとを御影山の古名の千年山からとって千年川だったのを、
三穂津姫の名から「穂津川 → 保津川」としている
・その他…「真名井の水」という御神水が湧き出している
【出雲大社(杵築宮 きづねのみや)】
・場所 …現:島根県出雲
・その他…「口遊(=くちずさみ)」 作者:源為憲(ためのり) 建物の高さの覚え歌
出 大
「雲太 、 和二 、 京三」
郎 郎 都郎
↓ ↓ ↓
48m 45m 40m
・何度も倒壊している…1031、1061、1109、1141、1172年と5回も倒壊
それぞれが30~40年間なので、倒壊は人為的な災害としている
犯人は詮索されない理由は、参勤交代しかり式年遷宮、御柱のような『消費』が目的であろうと
・現在の島根にある、杵築大社(出雲大社)は、古代地図からみると不便な土地に他ならない
しかし何故辺鄙な土地(島根)に転移されてしまったのか?
祟神天皇六年 …天皇が天照と大國主の二柱の神々の威光に畏れ遷し祀ったため、人心が乱れた
そこで天皇は熱心に贖罪の儀式を執り行われた。
※ここでいう天照と大國主とは、それぞれの派閥を表している。この二柱を追い出してしまったため、
反対運動が起こり、その威光に天皇は畏れたため贖罪の儀式を執り行ったという話し
・文献としての出雲国は、島根県にある鰐淵寺の台座銘(飛鳥時代)から存在しており、
ここでの出雲国(島根県)は既に大和朝廷の支配下にあったといえる。
【風土記】 元明天皇和銅六年(713年)に編纂令、天平五年(733年)に造られた
・播磨国風土記 ※この4つの風土記は完全な原本は存在しない
・常陸国風土記 そして編纂した人間は中央から派遣された太宰府の官人
・肥前国風土記
・豊後国風土記
・出雲国風土記 ※巻首~巻末まで完本で揃っている
編纂したのは出雲国造、意宇群の出雲広島
秋鹿(あいか)群の神宅臣金太理(みやけのおみ かなたり)編纂
(編纂した人物は、実際に出雲に住んでいる住民が編纂している)
八岐大蛇退治の話など収録されていないなど、「記紀」と異なる点を持つ
【雄神神社(=金銀銅鉄社)】
・場所 …奈良県奈良市都祁(つげ 「祁」=「大きな」…「大きな都」)
・祭神 …出雲建雄(もともと出雲にいた神)
・奈良県出雲村より北の都祁(つげ)には、壁に八岐大蛇を退治するスサノオの絵馬が掲げてあり、
近くの神社には、アシナツチ・テナツチの祠が祀ってある
↓
実際には島根県出雲で『八岐大蛇退治』は行われていないから、出雲風土記には書いていない説。
『八岐大蛇退治』は奈良県出雲で行われたことでは?
・スサノオが高天原から追放されて来た場所は、都祁にある「神野山(こうのさん)」と言われてる。
備後風土記(近畿地方)では、蘇民将来が伝わっている
【大神神社】 ※地元では、後からきた神であり信仰は微妙
・場所 …現:奈良県三輪
・名称 …大神神社(大和国一宮)
・祭神 …三輪山(神奈備)
・その他…他には見られない三つ鳥居
三輪山は古くは「三諸山(みもろ)」と呼ばれていた
「モロ」→「ワ」の変遷することはないので、神を追い出した形跡
三輪山(=巳輪山)ともする事が出来、山の円錐形は鏡餅(=カカミ餅)と類似し今に伝えられてる
・三輪山伝説「書記」 …倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)(孝霊天皇の皇女)が
大物主命の妻となったとしているが、大物主命は夜にしか姿を見せず
頼んで姿を見る事が出来ると、そこには蛇が・・・で叫んでしまった。
蛇は大物主の姿になり「恥をかかせたな、お前にも恥をかかしてやる」
倭迹迹日百襲媛命は自らを恥じて、女陰を刺して自殺してしまう。
↓
・朝廷側が自分たちが軽視していた大物主(=蛇と呼ばれた人々)と、自分サイドの姫との婚姻
・女陰を刺す=大物主の子どもを産むことが出来なかった事の主張
・拝殿は三輪山山頂を向いていない…大神神社拝殿を向くと真東、三輪山の山頂とは600~700M南を拝む
大物主命はもといた、地主神「出雲の神」が住んでいたのを追い出した
出雲神の象徴が三輪山のため、山頂を外している
・三つ鳥居 …鳥居の内側に扉がついている(年に一度繞道祭(にょうどう)でしか開かない)
檜原神社(元伊勢)も三つ鳥居としているが、鳥居を通り抜ける事ができない
※神域に入る事が出来ないことを顕している
【石上神宮】
・場所 …奈良県天理(1954年に合併し、その一つに「丹波市」があり、その土地にある神社)
もとは本殿はなく、現在の本殿辺りを禁足地とし「御本地」として祀っていた
現在も「布留社」と刻まれた、瑞垣が禁足地を囲っている
「禁足地」
・「そこから出てはいけない土地(=何かを閉じ込める場所)」
決して立ちいり禁止という意味ではない
・何が閉じ込められているのか?
布都御魂(=経津主)が祀られているといわれている
・どうして怨霊に?
大國主側であった布津主を朝廷側に寝返らせ、用済みになって殺害した(=ミサキ)
・「布留(ふる)」
魂が震える、怒りで体が震えるという意味
・名称 …石上神宮(神宮と呼ばれた神社は、伊勢と石上だけ 「日本書紀」より)
・祭神 …布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) ※物部氏の総氏神として信仰
「物部」 1.モノノフ =武士
2.モノノグ =武具・武器
3.モノノケ =怨霊
・その他…摂社に出雲建雄神社拝殿(祭神=出雲武雄(いずもたけお))
直接この拝殿へと続く石段は使用禁止になっているため、石上神宮側からしかお参りが出来ない
祭神:出雲武雄(いずもたけお)
・出雲と奈良に共通する神の名前
・武尊(たける)…その土地の勇敢な英雄に与えられる名前
日本武尊(やまとたける)
・景行天皇皇子
・熊襲武尊(くまそたける)・川上梟帥(かわかみのたける)を倒し、草薙剣を手にする
・熊襲、吉備、難波、陸奥、常陸、甲斐、武蔵、上野、信濃、美濃を平定、伊勢で倒れる
・日本武尊が出雲国に入り出雲武雄を殺そうと思い、出雲に到着すると親しい友情を交わした。
日本武尊が木刀を作り、出雲武雄と肥川で沐浴。
「太刀をとりかえよう」で「太刀あわせじゃ!」見事、木刀を握らされた出雲武雄は殺されました。
・宝物庫…七支刀(ななつさやのたち=別名 しちしとう)
天羽斬剣(あめのはばきりのつるぎ)
八尺瓊(やさかにの)勾玉
日の見盾
【大和神社】
・場所 …奈良県天理市
・祭神 …日本大国魂大神(=大國主)、八千戈大神(=大國主)、御年大神
・その他…この神↑は以前に「穴師坐兵主神社」に祀られていた
【穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社】
→ひょうすべ = 河童 = 相撲
・場所 …奈良県桜井市
・祭神 …兵主神(御食津神) ・ 大兵主神 ・ 若御魂神(稲田姫命)
・その他…・野見宿禰と当麻蹴速が、垂仁天皇(11代天皇)の前で相撲を取られた場所
・穴師(あなし)…「鉄穴師(かんなし)
=製鉄民族
→「神無月」もここからきている説もある
製鉄に必要な季節風を「北西風(あなじ)=冬の季語
「痛足」「病足」ともに「あなし」と読み、たたらで片足をやられた職業病をいう
・「坐」=「禁足地(出るな)」という性格を持ち合わせる神社
【長谷寺】
場所 …奈良県初瀬
歴史 …神亀四年(727年)から寺として存在していた (聖武天皇期 藤原不比等の娘・宮中が母)
その他…・この寺に至る初瀬街道は、別名:出雲街道
「わらしべ長者」の舞台であり、近辺に大きな遊郭が存在していた
「影向(ようごう)の間」 ここに籠れば“必ず”子どもを授かれるという言い伝えがある
→何十畳もある板敷の間に、京都からくる大勢の男女が籠る間
何が起きても誰にも問われることのない忘我の世界という、お堂
↓
後々システムは変化していき、籠った人に子どもを渡すシステムが確立する
口減らしの子どもを寺が預かり、それを裕福な家庭に手渡す
・飛鳥寺へ、天皇のための下賜品を造るための水銀を調達していた
宇陀には本州最大規模の水銀鉱山があった。
→そのために長谷寺だけが他県に末寺を持つ事が出来た。
↓
・その影響力は強大であり、三輪山から初瀬山にかけては、天皇関係の墓が存在しない
【大己貴神社(オオミキジンジャ)】
→ おおむなち=大國主命
・場所 …奈良県宇陀市榛原(はいばら)
・その他…福岡にも同名の神社が存在する
※そして福岡にも三輪町があり、飛鳥と言う地名が残っていた(平成の大合併で名前は消えました)
畿内との関係は証明されており、奈良にある大和のプロトであると言える。
【スサノオ神社】
・場所 …奈良県初瀬(この土地の地主神)
・その他…諏訪のミシャグチ神と同様な扱いを受けているような神社
【十二柱神社】
・場所 …奈良県初瀬
・祭神 …神世7代の神々を祀っている神社
・その他…・野見宿禰の五輪塔がある(昔は別のところにあった 出雲村字太田の畑)
・昔は神殿がなく、ダンノダイラ(三輪山東の出雲の集落)の磐座を拝んでいた
・狛犬の足元には力士が台座を支えている、当時の相撲取りの地位を表現してる
【飛鳥寺(元興寺)】
・場所 …奈良県明日香村
・宗派 …真言宗豊山派
・本尊 …釈迦如来
・その他…・日本最古の寺
・下賜品を造るための水銀を、長谷寺(初瀬)が調達していた
【奈良とは?】
・「青丹よし、奈良の都は咲く花の、匂ふがごとく、今盛りなり」
→「青」 …火にくべると高温により青く燃える鉄=良鉄
→「丹」 …朱砂・辰砂などの赤色の鉱物
→「匂ふ」…丹秀ふ(=良鉄)
=「砂鉄や水銀をたくさん持っていて、奈良の都は本当に栄えていますね」
・大和三山 …大和を象徴する山(標高は高くない)
・耳成山 畝傍山 天香山(「アマのカカ山」→「海の蛇山」)
・出雲地方では陰暦10月に空が荒れる事を「御忌荒れ」という
「御阿礼(みあれ)」=「賀茂神社」の別名で、葵祭の前3日の夜に行われる完全非公開の祭事
→「榊」に神遷しの神事を営む行為
・下鴨神社の境内に「出雲井於(いずもいのへの)神社」
→川のほとりの意味
祭神:スサノオ
○野見宿禰(元出雲)VS当麻蹴速(葛城)● の結果だが、
元出雲の住民は大和朝廷に見捨てられ、賀茂氏(葛城)の軍門に組みこまれる次第となる
【蛇】
※神蛇は甕(みか)、瓮(へつ)=桶に飼われその容器が神格化され後の世まで祀られることがある
タケミカツチ 鹿島神宮(鹿島) …甕(みか)の蛇(つち)
フツヌシ 香取神社(千葉) …瓮(へつ)の蛇(つち)
・八岐大蛇退治
アシナツチ (足無の霊)
テナツチ (手無の霊)
※四肢がないという蛇の特徴
・蛇の古語の一つに「ハハ」
スサノオが八岐大蛇を斬った「天羽々斬剣(あまのははきりのつるぎ)」
・初瀬(はつせ) …「は」→「ハハ」を一文字に省略し「ハ」
「つ」→「~の」
「せ」→「背」
→「蛇の背」…三輪山を流れる川を、蛇の背のようにたとえて「初瀬川」
【銅鐸分布】
最古式 菱環鈕式 (りょうかんちゅうしき)
古式 外縁付鈕式 (がいえんつきちゅうしき)
中式 扁平鈕式 (へんぺいしきちゅうしき)
新式 突線鈕式 三遠式銅鐸(さんえんしきどうたく)
近畿式銅鐸(きんきしきどうたく)
西日本から近畿へと伝播していった
・製鉄分布に関してみると
古代末~中世 全国的に分布
中世期末 中国地方 ・ 東北地方 と限られたところだけになる
→この製鉄を求めた聖武天皇期(749年)…「大仏」の竣工
【土師氏とは?】
・天照とスサノオの間の誓約の際に生まれた八王子一柱の御子神「天ノ穂日命」を祖とした、
土師氏と呼ばれる民族(グループ)。もちろん出雲臣も祖神は同じ
・氏族の祖先は野見宿禰
「野見」 …野を見るなどの意味 、野見奉る(頭を地面に擦る)その程度の人たちの総称
「宿禰」 …地方豪族の名称 、八色姓(やくさのかばね)では第三位の、有力者に与えられた尊称
・「日本書紀」 …垂仁天皇(2代目)の御代に、当麻邑に当麻蹴速(たいまのけはや)と出雲国の野見宿禰が
力比べをして、宿禰が当麻あばらを砕き、腰を砕き、宿禰が勝ち当麻の領地が与えられた。
そしてこれを今の「腰折田」の地名の由来であるとしている。
ここでの野見宿禰の住んでいる出雲を奈良と捉えると、「出雲=奈良」のかたちは
日本書紀の記述により証明される。
・ 元々には、このように地方の強い人物を、朝廷の監視下における体制を作るために
出来たものではないのだろうか?
・「すもう」 …もとを「すまふ=争う」
931~938年に成立した辞書には「須末比(すまひ)」とされている
相撲…「相(=互いに)」+「撲(=打つ・叩く・倒す)
ちなみに明治四二年(1909年)頃から相撲=国技 というイメージが出来上がる
【野見宿禰】
・埴輪を最初に造った人という伝説
→「書記」垂仁天皇が、亡くなった母の弟を埋葬する際に、彼に仕えていたものを生きながら埋めたが、
彼らが死んでしまうとその腐肉を烏、犬が食い散らかしにきてしまった
その後皇后が亡くなり、同様にしようとしていたところ野見宿禰が埴輪を埋めるようにと進言。
天皇は喜び宿禰に土師臣の姓を贈り、以後皇室の葬儀を受け持つことになった。
→しかし現在、皇后の墓(奈良市西郊)を調査したところ埴輪は見つからず、それどころか大和(奈良地方)
における埴輪は出土されていない。
⇒そのため、宿禰の殉死埴輪説は否定されている(ただし埴輪の制作自体はしている)
陸墓の工事をする土師氏が、社会的地位を上げるために流した功績という説が強い