鎌倉


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・神 ①自然   :太陽、山、海、森

   ②祖霊   :先祖の霊(中国では死者を「鬼(グイ)」としている)

   ③一般の人々:菅原道真、その他朝廷に敗れた人

                     ↓

           ・スサノオノミコト、大國主、長スネ彦、湯羅(ウラ)、アテルイ など

 

 

・鎌倉=たくさんの神々が住んでいる土地:「神坐(かみくら)」

昔、死体を焼く場所を「かまば」

             ↓

火葬場には「かま」、「かまど」という地名がつけられた

EX… 「嘉麻」「可真」などの地名 →「鎌」「釜」などにて転化していった

 

 

・「古事記」→「倉=蔵

:谷 →山と山の間で「暗い」場所

 

☆プチ情報

「さくら」 → 「さ」+「くら」+「ら」

※「さ」  →前方斜め下方向へ進む

※「くら」 →口を開けた状態の、口内の暗さ:「蔵」「倉」→ 谷

※「ら」  →物事が寄り集まる:未然形(これから、そうなるであろうという様)

 

「サ行」は獲物に矢を射掛ける矢の軌道を表している。

 サ・前方斜め下方向へ進む

   シ・下方向へ進む

   ス・抵抗なく横方向へ通過

   セ・背に迫る・急かす・せばめる・攻める。これは弓矢で獲物の背後に接近して攻める形態を表している。 

   ソ・上方向

※「サ行」は獲物を追う人間の「矢」の動きを概念化している。

 

・「鎌倉」=「かまばの谷」

 

 

・鎌倉は一方を海、三方を山に囲まれた砦

  だが平安京、藤原京、平安京、大阪、江戸 全ての地形で選ばれていない

  逆を返せば大変不便な土地である。

 

 

 

・鎌倉七口:それぞれに墓地が設けられている

七里ガ浜「極楽寺坂切り通し」 :昔は「地獄谷」

深沢  「大仏坂切り通し」

葛原ヶ岡「化粧坂切り通し」:化粧をした遊女が集う →刑場の近くに遊郭がある

                            ↓

            ・「ハレ」と「ケ」のように、一般の生活と反対のものと定義してある

            ・狐=「来つ寝」…遊女

          → 佐助稲荷における狐(来つ寝)の信仰

 

扇ヶ谷 「亀ヶ谷切り通し」

金沢  「朝比奈切り通し」:鎌倉霊園がいまだにある

山之内 「巨福呂坂切り通し(コブクロザカ)」:建長寺の近くで、昔刑場

逗子  「名越切り通し(ナゴエ)」

 

 

・名刀:正宗 → 鎌倉で作成

 

 

・円覚寺(1282) 無学祖元 鎌倉五山第二位

                ↓

 鎌倉五山:1386年 足利義満に定められた鎌倉の禅宗寺院のランク

  ・一位 建長寺(1253) →日本初の禅道場

   隠語「建長寺」 → 「綺麗に片づけている」:それだけ厳しい規律

   階段のところに、烏天狗の鉄像がある

            ↓

  ・天狗:刑場で仕事をしていた人々を蔑んだ呼び方

                   ↓

   ・「蔑む(さげすむ)」 →「下墨(さげすみ)」:大工の傾きを図る道具から、動詞化して「見下す」

 

 

  ・二位 円覚寺(1282

  ・三位 寿福寺

  ・四位 浄智寺

  ・五位 浄妙寺

 

 

・東慶寺「縁切り寺」 鎌倉尼五山第二位(現存する唯一の寺)

 

 

 

 

 

・鎌倉十井(カマクラジッセイ)…鉄分が多く、茶色く濁ってる水がとれる鎌倉では、飲み水が重宝されていた

                そのため水の名所が有名となっている

ちなみに大正時代まで、鎌倉では水売りが歩いていた

 

 ・明月院の  「瓶(つるべ)の井」    ・極楽寺坂手前 「星月夜の井」

 ・浄智寺門前 「甘露の井」        ・海蔵寺門前  「底脱(そこぬけ)の井」

 ・岩船地蔵堂 「扇の井」         ・浄光明寺付近 「泉の井」

・材木座海岸 「六角の井」        ・円覚寺境内  「棟立の井」

 ・長勝寺門前 「銚子の井」        ・鶴岡八幡宮付近「鉄の井」

 

 

・明月院(1160)「紫陽花寺」 

  鎌倉最大の「やぐら」がある。高楼のことではなく「窟」という、武器を貯蔵する岩穴

 「矢倉」(やぐら)→「岩倉」(いわくら)

 

 

・土器投(かわらな)げ:京都「神護寺」 密教基本教義:怨敵退散・怨霊調伏

 |            ↓

 |      創建:和気清麻呂 真言密教の寺 →源頼朝の肖像画がある

 |                        ↓

|  ・(1145年~1151年)に鳥羽法皇により荒廃した。文覚は再興を後白河法皇に要請したが果たされず

|   流罪となった。源頼朝と出会い神護寺再興の約束を結び、1182年には後白河の許しが出た。

 ↓

・かわらけ=河原者:「河童」「河衆」と蔑まれた人々を、谷に投げ捨てる という風習

                          ↓

  ・日本各地に「祝山」「祝谷」という地名は、「ほうり山」「ほうり谷」の当て字

   人を殺すことを「屠る(ほふる)」「葬る(ほうむる)」 →「祝」という当て字

 

 

・佐助 稲荷=「鋳」+「成り」

 ↓

「佐助」=「佐殿(すけどの)を助けた」

       →「右兵衛佐(うひょうえのすけ)」=「頼朝(の官職)を助けた 鋳成り」の意

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・銭洗弁財天=「宇賀福(宇賀神)神社」

|           ↓

| 仏説で「白蛇神(ハクジャシン)」=弁財天(サンスクリット語「サラスバティ」=大河)

|・宇賀神=宇迦御魂神(=倉稲魂尊)=豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)

|     ↓

|      「古事記」 …スサノオとカムオオイチヒメ(オオヤマツミの娘)の間に出来た神

|      「ウカ」  …浮く、沖、漂白というイメージ(=水端の者) 

|     ↓

| ・稲の実りを司る神 

|   ・「稲」+「成り」

|   ・「鋳」+「成り」(製鉄)… 稲荷神=宇迦御魂神=宇賀神=弁財天

|                              (=市寸島比売命(イチキシマヒメノミコ))

|      ↓ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

| ・日本三大弁財天

|   ・安芸の厳島=祭神:市寸島比売命

|   ・近江の竹生

| 「 ̄・江の島

| |

──→ ・「水で洗うと、何倍にもなって返ってくる」=「洗うと銭になる」=砂鉄が採れる土地

  |  ・「霊狐泉(れいこせん)」の神は、宇迦御魂神

 ↓

・奥津宮     552年創設 欽明天皇 :多紀理 比売(たきり ひめ) ← 蘇我・物部の崇仏論時代

 中津宮(上ノ宮)853年創設 慈覚大師 :市寸島 比売(いちきしま ひめ)

 辺津宮(下ノ宮)1206年創設 僧・良信 :多岐都 比売(たきつ ひめ)

 

・鎌倉の深沢に五頭竜が住んでいた、その竜が子どもをさらっていく山道を「子死越(こしごえ)」

 江の島の弁財天に求婚、弁財天は五頭竜の罪を咎め村を護ると誓った。

                ↓

・五頭竜を祀る神社 :龍口明神(江の島の対岸にある) …日蓮が処刑されそうになった場所(=処刑場)

||「江島縁起」には、弁財天と五頭竜は結婚したと書かれ、その娘が3人:市寸島比売たちの三女神

 |↓

 |・龍口明神の管理は江島神社

 |  「巳年式年大祭」に60年に1度 龍口明神の五頭竜の木彫りを、弁財天に会わせる

 |   → 無理やり引き裂かれた者への鎮魂

 ↓

・五頭竜 = (牛頭天皇 = スサノオ)

                 →朱砂 :水銀、鉄の王

 ・弁財天 = 水辺の神  = アマテラス

                 →あま :魚介類・海藻類を獲ってる人 「海女 :あま」

 

 

・頼朝の命で、文覚上人厳島神社の窟(いわや)で1180年に東北(=藤原氏調伏)の願かけ

  • 鎌倉入りの10年前からの狙い

               ↓

              「金」 中尊寺・金色堂などに見られる金保有量

 

 

・江の島神社 =別名 金亀山与願時(=きんよがんじ)

  →「七瀬祓の霊所」 

他の霊所 ・由比が浜 ・片瀬川 ・金洗沢池 ・武蔵金沢 ・葉山 ・柏尾=?

      → 霊所 = 鉄に関係している地名 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・「鎌倉党」

鎌倉とは鎌倉権五郎景政(=平景政)(カマクラ ゲンゴロウ カゲマサ)が

11041106年に大庭(=藤沢近辺)の御厨(みくりや)として開墾した土地

現在の鎌倉駅付近は、海岸線も近く大変な泥湿地帯であった。

          ↓

豪族の土地(荘園) → 貴族・寺社に寄進 の構図(国に税を支払う必要がない+不輸・不入の権)

※特に神社に寄進された荘園を御厨と呼ぶ

  その荘園を守るために組織されたのが武士(さむらい)

                       ↓

「さむらい」=「さぶろう」者…人間に奉仕するとい う意味

◎時は経ち114498日 源義朝が、この土地を襲撃

さらに時が過ぎて1192年 源頼朝が、幕府を開くために、この土地を奪うこととなる。

鎌倉党の一派は、山奥に逃げ込み、泥湿地帯を頼朝に差し出した     ↑

                                   |

当時、相模の土地には有力豪族(頼朝を助ける人はいない。なので手薄な鎌倉を占拠)

   大庭氏…鎌倉権五郎景政の係累(=鎌倉党一派)  桓武平氏の流れ

   土肥氏…相良国土肥郷に付いた役人から始まる   桓武平氏の流れ

   梶原氏…鎌倉党一派からの系累          桓武平氏の流れ

   三浦氏…地方豪族と平家の系譜          桓武平氏の流れ

   和田氏…三浦氏からの系譜            桓武平氏の流れ

   北条氏…京都からの派遣役人から始まる      桓武平氏の子孫

 

・頼朝が鎌倉に入ってきたときに、鎌倉山から鶴岡八幡宮を拝んだ(=遥拝)

                               → そこまで参拝できる道がなかった

 当時の鶴岡八幡宮は一の鳥居の近くで、材木座海岸よりの場所に位置していた(海岸付近で地盤がゆるい)

 そして泥湿地帯であったのも関係している

 

・鶴岡八幡宮

10638月 奥州を平定した 源頼義 が京都石清水八幡宮の御分霊を勧請

         鎌倉由比郷に社殿 「由比若宮」をしたことに始まる。

        (現在の「元八幡」の位置。現在の位置には1180年 頼朝 が奉遷)

 

・段葛(だんかずら)…1182年 北条政子の安産祈願のため、社頭から由比が浜まで土段を盛り上げた参道

            1.25キロの長さがあり、1864年の写真でも確認することが出来る

            勿論、安産祈願だけでなく、人馬の行きかいのために造られた面もある

 

・源平池 …左側 平氏 赤旗に島4つ(死)

       右側 源氏 白旗に島3つ(栄)

・本宮 …1828年 11代将軍 徳川家斉造営

・今宮 …後鳥羽・土御門・順徳の三天皇を祀ってある

・由比若宮遥拝所 …由比若宮の遥拝所

・隣にある清泉小学校の場所には「大倉幕府」(=幕府の中枢機関)があった

・長谷寺(=泊瀬 はつせ)…死者の霊が宿る場所

  736年 藤原鎌足の孫・房前が創建させた

 

 

・御霊神社

 ・1083年 後三年の役で武名を轟かせた「鎌倉権五郎景政」を祀ってある

  最初は大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉 の祖霊(それぞれ鎌倉党からの係累)の「五霊(ごりょう)」を

  祀って、騙りて「五霊 = 五郎(=怨霊) = 御霊」の形となった

                   ↓

・鎌倉権五郎景政が開墾した土地を、頼朝たちに奪われた恨み

 

 ・鎌倉権五郎景政 …八幡太郎義家に16歳のころに従い、後三年の役で奥州に赴く

     |     秋田(=出羽国)を攻めていた際、目を矢で射られるが、ひるむことなく相手を射倒

     ↓  

「ごんごう」=河子(ごんご=河童)=河衆(=河、谷、海においやられた鎌倉党)

 

・「面掛行列」 …918日の御彼岸時期に執り行われる

      爺、鬼、異形、鼻長、烏天狗、翁(寿老人)、火吹男(ひょっとこ)、福禄寿・阿亀(おかめ)、女(とりあげ)、

猿田彦が妊婦姿の阿亀を中心にして行進する行事。

     ↓

 頼朝が妊娠させてしまった、矢野弾左衛門(やのだんざえもん)の娘の菜摘御前

                   → 江戸まで続く、有名な非人頭

↓  

非人:特定職能民・芸能民の呼称(鉄などの加工技術) = 被差別民の呼称としても使用される

 

 

・甘縄神明宮 …頼朝、政子も度々訪れた神社

 710年 行基が開創 鎌倉最古の神社

 祭神 天照大神

 

 

・極楽寺(=悲田院 ヒデンイン)

 1159年 北条重時が 忍性を開山として創建

 貧民、病人救済から孤児院、ライ病(=仏教では業病として、治らないとされていた)棟を建設

 忍性は仏教界の異端児的な存在

 

 

・稲村ヶ崎=鋳土群れ(イナムレ)

  タタラに従事していた人間は、片目で火を見つめているため片目をやられてしまう

  そのため、タタラのあった場所には天目一箇命(アマノマヒトツノミコト)の伝説や

  「針」という文字をを含んだ地名が残されていたりする。

 

・七里ガ浜 …実際には一里もない七里ガ浜

   |     ↓

   |   火尻ヶ浜では?(当時鎌倉では鎌倉山を火口ヶ岳と呼んでいた)

  ↓

「太平記」での一場面 (=「鋳土群れ」だからのパフォーマンス)

・新田義貞 VS 鎌倉幕府 で、極楽寺切り通しを突破できない「義貞」

 稲村ヶ崎の波打ち際に自分の刀を海中に投げ入れ、波が引き幕府に攻め込めた。

 そして鎌倉幕府は滅亡した。というストーリィ

 

     

・源頼義(ヨリヨシ)、八幡太郎義家(ヨシイエ)の親子が「前九年の役(105162)」の奥州遠征

鎌倉の武庫山に白旗をたてた時以来から「源氏山」となっている

 

 

葛原岡神社(クズハラガオカ):この地で処刑された日野俊基が祀られている

                         ↓

1331年、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが露見。日野俊基は捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑さ  

れた。明治(21年)俊基は倒幕の功労者として評価され、葛原岡神社創建。

 

 

・荏柄(エガラ)天神社 …日本三大天神社

  九州の太宰府

  京都の北野天満宮

  ・境内内には、川端康成が送った「河童塚」というのもある

・大塔宮=鎌倉宮 …大塔宮護良親王を祀る神社

              ↓ 

1308年 後醍醐天皇皇子 として誕生

     延暦寺・天台宗座主となる(20歳)

1331年 後醍醐天皇の討幕挙兵に応じるも、バレて隠岐に流される

1332年 楠木正成と連携し挙兵

1333年 足利尊氏、新田義貞などと一緒に、鎌倉幕府は北条氏一族共に滅亡

同年 征夷大将軍となる

   が、足利尊氏と不仲になり、鎌倉宮の土牢で惨殺(享年28

   最期の時、お茶を所望したがそれさえも許されず首をおとされた

                            |

Q.護良親王の読み方 → A.もりながしんのう     |

                ↓ |

      もとの名前は「護長」なのに「護良」に? |

                ↓           ↓

              「  怨霊 = 御霊 = 護良  」

 

 

歴史:年表

 

1147 源義朝と熱田大宮司・藤原季範(スエノリ)の娘の三男として源頼朝誕生

1156 保元の乱  崇徳上皇 ● × 平清盛+源義朝+後白河天皇 ○

1159 平治の乱  平清盛  ○ × 源義朝 ●(死) 

                   → 頼朝(14歳)伊豆 蛭ヶ小島へ流罪となる

 

・・・・・・・・・・この間は、ずっと流人でした・・・・・・・・・・

 

1177 源頼朝(31歳) と 北条政子結婚

1180 後白河法皇次男・以仁王+源三位頼政●(共に討死) × 平知盛+維盛○

    

この乱により平清盛は源氏皆殺し命令

 

1180 一か八かの挙兵 源頼朝○ × 平兼隆●      (北条時政の命で、後方待機『旗印=傀儡』

                                この戦で負けたら、切腹させていた)

同年         源頼朝● × 大庭景親(鎌倉党)○

           ↓

     梶原景時により九死に一生を得て、房総半島へ渡り…源氏の名のもとに2万人終結

 

同年 源頼朝○ × 平維盛● …富士川で水鳥の羽音で平維盛敗走

同年 10月 源頼朝は鎌倉入りを果たす(元八幡を遥拝)

 

1181 平清盛(64) 病死 後1183 信濃木曾義仲が平家を打討して京都に入る

1184 頼朝+後白河法皇○ × 義仲●を近江で討滅

   →頼朝の弟・範頼 と 義経が追討軍として派遣される

 

同年2月 義経○ × 平氏軍●

→ 鵯越木場(ヒヨドリゴエキバ)逆落としの戦術を以て、一ノ谷で快勝

1185 壇ノ浦にて平家滅亡

     → 安徳天皇(8)海に投身

   そして後白河の策略により、義経は「検非違使」の称号を得る。これが頼朝の討伐の理由ともなる

 

1189 衣川の戦い 頼朝○ × 義経● を討滅し、頼朝は奥州を手に入れる

1192 頼朝(46) 征夷大将軍となる

 

1198 頼朝(52) 稲村ヶ崎で落馬し、これが原因で翌年死亡(詳細記載の文章が、何故か紛失)

          用済みとなった、頼朝を北条氏の圧力のもと、鎌倉党の実行で行われたのでは

 

→ 1779 (死後580年) 子孫:島津重豪が墓を立てるまで墓はなかった

 

・頼朝の弟・範頼(のりより)

 1193 曾我祐成(そが・すけなり)×五郎時到(ごろう・ときむね) 曾我兄弟の仇討(クーデター)

    →木曽義仲の愛刀       →義経の奉納した刀

  ※共に頼朝に恨みを持つ差料であり、今は箱根神社に奉納されている

→日本三大仇討の一つ

 ・忠臣蔵  …赤穂浪士の討ち入り

・鍵屋の辻 …荒木又右衛門の仇討

 

・この黒幕にいるのが、範頼(のりより)と大庭景義ではないか…?

            |        →この事件後すぐに出家している

            ↓

   ・伊豆 修禅寺に幽閉されることとなる

・最期は、梶原景時の刺客に襲われた説・自害説など様々

 

・②源 頼家

  ・1199年 頼朝の死後家督を継ぎ、1202年 征夷大将軍になるものの

   北条氏の敷いた合議制という制度により、頼家の思い通りに幕府は動かない

暗殺されかけたが生き残り、和田義盛に北条時政討伐を命じる。が、寝返られ部下は次々殺害

   無理やり修禅寺に出家させられるが、その後惨殺(享年23歳)

        ↓

・これを偲んで政子が、経堂・指月殿を造営

        →とあるが、もともと北条家の土地であり、その土地の人々への頼家始末の賄賂

         修善寺あたりは「桂谷(かつらたに)」=「葛谷(かずらだに)」と呼ばれていた

・「葛(くず)」 …歴史の表舞台に登場しないような人たちが住む場所 という意味

 

・修善寺の橋の近くに横瀬八幡宮があり、末社に比売(ひめ)神社があり御神体が女陰を象っている

 政子が下の病に罹った時に、その石をもって患部を知らせたという由緒書がある。

 それほど、この土地が馴染であったといえ、強い繋がりがあった。

 

 

 

③源 実朝(頼朝の次男)

1192年 頼朝の次男として誕生

1203年 征夷大将軍となる

 

・和歌に造詣が深く 後鳥羽上皇と親交を深める 

  ↓

 実朝「金 槐和歌集(きんかいわかしゅう)」=「鎌倉右大臣(=実朝)和歌集」という意味

    ↓  →「」 …大臣の唐風の読み    

   「金」 …鎌倉の「鎌」の編

 

 

・実朝(24)が宋に渡るために造営した船が沈没した浜が、由比が浜

                        ↓

「由比=結い:たばねるの意味」 ・漁業、農業関係者などが協力していた浜

  当時は海岸線が入り組んでいたため、死体遺棄場に適していた(和田塚らへんも)

  静御前が産んだ義経の子は、頼朝または政子が、由比が浜に捨てたと記録が残っている

 

                                                          

1219 鶴岡八幡宮 公暁(②頼家の子)により惨殺 

 ・「吾妻鏡」…銀杏の木に隠れていた公暁

   ・「愚管抄」…石橋のところで暗殺  By慈円

源氏が滅亡後

北条氏 後鳥羽上皇の皇子を「親王将軍」として藤原三寅(みとら)(2歳)をおく

    上皇は最初拒否をしていたが、軍事的プレッシャーに負ける。

そあいて…北条氏との険悪さが頂点に達し

 

 

1221 承久の乱  後鳥羽上皇●×北条氏+鎌倉武士団○

    →「天皇が東夷に敗れる」という驚天動地の結果

    →崇徳上皇の呪い「皇を取って民となし、民を皇となさん」が現実となる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歴史:家系図