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<pre> <span style="font-size:20px;">【井ノ口忠男】</span> </pre> <p>日本大学アメリカンフットボールのコーチ</p> <p> 追手門学院高等学校の出身。追手門学院高等学校はアメフトの強豪校であり、卒業生には数多くの甲子園ボウル出場選手がいる。1976年に卒業した井ノ口忠男は1978 年の3年時に第33回甲子園ボウルにて最優秀守備選手受賞した。</p> <p>&lt;その他の受賞者 第33回甲子園ボウル&gt;</p> <p>ミルズ杯(年間最優秀選手賞) 金井義明 日本大学 クォーターバック</p> <p>甲子園ボウル最優秀選手賞 金井義明 日本大学 クォーターバック</p> <p>最優秀攻撃ラインマン賞 都井伸治 日本大学 オフェンスライン</p> <p>最優秀守備ラインマン賞 仁科明弘 日本大学 ディフェンスライン</p> <p>最優秀守備選手賞 井ノ口忠男 日本大学 ラインバッカー</p> <p>甲子園ボウル敢闘賞 越中啓至 関西学院大学 ランニングバック</p> <p> </p> <pre> <span style="font-size:20px;">【日本大学アメリカンフットボール部 通称:フェニックス】</span> </pre> <p>創部:1940年</p> <p>部長:加藤直人</p> <p>監督:内田正人</p> <p>ヘッドコーチ:森琢</p> <p>コーチ:井ノ口忠男</p> <p>通称:フェニックス</p> <p>ホームグラウンド:日本大学アメリカン フットボール</p> <p>競技場スローガン:「剛毅果断」 意志が堅くて強く、くじけないこと、物事を思い切って行うと、決断力のある様</p> <p>日本選手権優勝(ライスボウル):4回</p> <p>学生日本一優勝(甲子園ボウル):20回(同点優勝含む)</p> <p>関東学生リーグ優勝:32回</p> <p>&lt;低迷期&gt;</p> <p> 90年代、00年代に低迷期に陥った。原因は故篠竹監督の指導方針の時代錯誤。また、日大付属高校の有能な選手が競合大学(主に法政大学)に入って戦力がダウンした2点が挙げられる。近年は内田正人監督や井ノ口忠男コーチのもと、近代フットボウルを取り入れたため関東では法政大学と日本大学の2強の様相を呈している。</p> <p> </p> <pre> <span style="font-size:20px;">【ライスボウル】</span> </pre> <p>&lt;概要&gt;</p> <p>アメリカンフットボールの日本一のチームを決定する選手権試合のこと。正式名称はアメリカンフットボール日本選手権 第○回ライスボウルである。後ろに協賛企業の名が付く。最多優勝はオービックシーガルズ7回である。</p> <p> 1948年から学生オールスターの東西対抗戦として1月15日の前後に行われてきた。1983年度ら日本選手権として位置付けられ、学生代表(甲子園ボウル優勝チーム)と社会人代表(ジャパンXボウル優勝チーム)が直接対決する形となった。併せて毎年1月3日に開催されるように変更された。</p> <p>&lt;歴史&gt;</p> <p> 戦後の焼け跡から蘇った日本のアメリカンフットボールは、めざましい勢いで復活した。47年4月に東西大学王座決定戦として甲子園ボウルが誕生。東京では戦前に行っていたオールスター戦の復活を願って関係者が奔走し、同年12月に急遽開催が決定した。出場選手はリーグ戦終了後、オールスター選手、監督、コーチ陣を選出してチームを編成し、大急ぎで大会を告知するポスターを作り上げて宣伝活動を行うなど、関係者は試合の準備に追われる毎日だった。</p> <p> 大会名称は、米国の新聞記事がヒントになった。戦前に東西選抜対抗戦を米国の新聞が、『日本人は米(ライス)を主食としているから、日本のボウルゲームはさしずめ“ライスボウル”とでも言うのではなかろうか』と報じていたことにちなんで、ライスボウルと命名されることになった。</p> <pre> <span style="font-size:20px;">【甲子園ボウル】</span> </pre> <p>&lt;概要&gt;</p> <p> 全日本大学アメリカンフットボール選手権大会の決勝戦のこと。正式名称はパナソニック杯毎日甲子園ボウルである。毎年12月の第3日曜日に、兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場で行われ、主催は日本アメリカンフットボール協会と毎日新聞社、特別協賛は2008年からパナソニックグループが務めている。</p> <p> 2008年度までは「東西大学王座決定戦」として、関東学生リーグと関西学生リーグの王者同士が対戦する形で大学王座を争った。2009年のシーズンから、全国8連盟による全日本大学選手権の開始と共に、その決勝戦としての舞台に移行した。</p> <p>&lt;歴史&gt;</p> <p>日本のアメリカンフットボールは、立教大学のポール・ラッシュ博士により1934年に組織化された。当 時日本に留学していた日系二世たちを中心として関東の大学でチームが結成され、戦前のチームとしては立教大、明治大、早稲田大、慶応大、法政大、日本大が 関東で、関西大、同志社大、関学大が関西で創部した。</p> <p> その活動は第2次世界大戦で中断し、戦後まもなく1946年2月に関西、6月に関東でそれぞれ大学の連盟が結成され活動が再開される。戦前の1939、40年に、甲子園ボウルの前身とも言える東西大学の対抗戦が行われたが、戦争のため中止を余儀なくされた。</p> <p>&lt;第68回大会&gt;</p> <p> アメリカンフットボールの全日本大学選手権決勝、第68回甲子園ボウルは、甲子園球場で行われ、大村和輝コーチ率いる西日本代表の関学が、井ノ口忠男コーチ率いる東日本代表の日大を23-9で下し、3年連続26度目の優勝を果たした。</p> <p>関学大はQB斎藤を軸とした多彩な攻撃と堅守で前半を10-3で折り返した。</p> <p> 第4クオーターにはインターセプトで得た攻撃権をFGにつなげるなどして突き放した。23年ぶりの優勝を狙った日大はQB高橋遼が不調で、TDは終了間際の一つに終わった。</p> <p>年間最優秀選手に贈られるミルズ杯は関学大主将のDL池永健選手、甲子園ボウル最優秀選手は2TDパスを決めた斎藤選手が選ばれた。</p> <p> </p> <pre> <span style="font-size:20px;">【あずまボウル】</span> </pre> <p>&lt;概要&gt;</p> <p> 関東大学アメリカンフットボール選手権のことである。関東大学選手権として第40回を迎えた2011年より現在の名称となった。関東学生リーグ1部AブロックとBブロックの優勝校が対戦する。勝者は全日本大学アメリカンフットボール選手権に出場し、パインボウルの勝者と甲子園ボウルの東日本代表の座を争う。</p> <p>&lt;歴史&gt;</p> <p>関東大学選手権は1970年度に関東学生リーグが1部2部制から5つの並列リーグに再編成されたことに伴い創設された。</p> <p> 第1回(1970年)と第2回(1971年)は5校の優勝校によるトーナメント戦、第3回(1972年)から第8回(1979年)は並列リーグの上位校8校によるトーナメント戦、第9回(1978年)から第11回(1980年)はそのうちの1校と他地区の1校による予選を加えた方式で行われた。第11回(1980年)には日産自動車がスポンサーにつき小型自動車の名前をとった「パルサーボウル」という名称がついた。関東大学選手権と別にパルサーボウルにも大会回数が通算されている。それまで決勝の会場には駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場が使用されていたが、横浜スタジアム次いで東京ドームが使用されるようになった。</p> <p> 第12回(1981年、第2回パルサーボウル)からはリーグの再統合による1部リーグの並列化に伴い、現在と同じ1部Aブロック優勝校と1部Bブロック優勝校による対戦1試合に変更された。日産自動車のスポンサードは第25回(1994年、第15回パルサーボウル)で終了し、第26回(1995年)は別称なしで行われ、方式も1部A・Bブロックの各2位までの4校によるトーナメント戦に変更された。第26回は決勝で東京ドームを使用したものの関東圏でのアメフト人気衰退からの運営費難などもあり第27回(1996年)からは川崎球場を使用した。</p> <p> 第31回(2000年)には新たな名称が公募され、「堅いものどうしが激しくぶつかり合う」という意味の「clash」から「クラッシュボウル」という名称が採用された。しかし日本語の読みでは衝突事故やハードディスクの故障を表す「crush」と変わらず、パソコン業界や航空業界に広告の依頼を断られることが多かったという。また決勝の会場もさいたまスーパーアリーナに変更され、第34回(2003年、第4回クラッシュボウル)からは味の素スタジアムになった。</p> <p> 第37回(2006年、第7回クラッシュボウル)には再び出場校が現行方式に戻った。2009年には甲子園ボウルの出場校が全国の大学を対象にすることになったために関東大学選手権は休止され、全日本大学選手権の東日本代表校決定戦としてクラッシュボウルが開催されることになった。クラッシュボウル準決勝戦で関東1部A・Bブロックの優勝校と北海道と東北の1部優勝校が対戦する方式となり、日本学生協会の主催、関東学生連盟の主管になった。2011年には関東大学選手権が再開され、第40回関東大学選手権・第1回あずまボウルとして横浜スタジアムで開催された。なお関東学生リーグの再編[1]に伴い、2013年大会を以って廃止されることが予定されている。</p> <p> </p> <pre> <span style="font-size:20px;">【ミルズ杯】</span> </pre> <p>&lt;概要&gt;</p> <p>日本全国の学生アメリカンフットボールで、1年間を通じ、最も活躍した選手に贈られる年間最優秀選手賞。</p> <p>対象は関東学生リーグ、関西学生リーグの選手。</p> <p>1974年の創設以来、記者投票によって甲子園ボウル試合会場で選出されていた。</p> <p>2009年以降、全日本大学選手権となったことを境に、全国8地区の中から年間を通じ、最も功績のある選手が選ばれることとなった。</p> <p>また、過去二回、現在の選考方式になる前に甲子園ボウルの敗戦チームからミルズ杯受賞者が出ている。</p> <p>&lt;由来&gt;</p> <p> 合衆国のアメリカンフットボールコーチ協会の委員会メンバーを務めた経験を持ち、カレッジフットボール協会コーチ部門の初代書記長でもある「チャック・ミルズ氏」がこの賞の名前の由来。</p> <p> ミルズ氏は、NFLカンサスシティー・チーフスのアシスタントコーチ時代に、第1回スーパーボウルに出場を果たした。以来、30年近くに渡って、カレッジフットボールのヘッドコーチを務め、4度のリーグ最優秀コーチに選ばれ、彼の指導したチームは4回、全米ランキング入りを果たしている。</p> <p> 当時の日本に、本場のフットボールや、様々なトレーニング方法を学びたいという関係者の熱意を受け止め、フットボール留学を受け入れ、彼自身も毎年ように来日して積極的にクリニックを行った。こうしたミルズ氏の功績をたたえて1974年から学生の年間最優秀選手賞であるチャック・ミルズ杯が制定され、甲子園ボウルで表彰が行われることとなった。</p> <p>このミルズ杯は今もなお、学生フットボール選手にとっての最高の目標である。</p>
<pre> <span style="font-size:20px;">【井ノ口忠男】</span> </pre> <p>日本大学アメリカンフットボールのコーチ</p> <p> 追手門学院高等学校の出身。追手門学院高等学校はアメフトの強豪校であり、卒業生には数多くの甲子園ボウル出場選手がいる。1976年に卒業した井ノ口忠男は1978 年の3年時に第33回甲子園ボウルにて最優秀守備選手受賞した。</p> <p>&lt;その他の受賞者 第33回甲子園ボウル&gt;</p> <p>ミルズ杯(年間最優秀選手賞) 金井義明 日本大学 クォーターバック</p> <p>甲子園ボウル最優秀選手賞 金井義明 日本大学 クォーターバック</p> <p>最優秀攻撃ラインマン賞 都井伸治 日本大学 オフェンスライン</p> <p>最優秀守備ラインマン賞 仁科明弘 日本大学 ディフェンスライン</p> <p>最優秀守備選手賞 井ノ口忠男 日本大学 ラインバッカー</p> <p>甲子園ボウル敢闘賞 越中啓至 関西学院大学 ランニングバック</p> <p> </p> <pre> <span style="font-size:20px;">【日本大学アメリカンフットボール部 通称:フェニックス】</span> </pre> <p>創部:1940年</p> <p>部長:加藤直人</p> <p>監督:内田正人</p> <p>ヘッドコーチ:森琢</p> <p>コーチ:井ノ口忠男</p> <p>通称:フェニックス</p> <p>ホームグラウンド:日本大学アメリカン フットボール</p> <p>競技場スローガン:「剛毅果断」 意志が堅くて強く、くじけないこと、物事を思い切って行うと、決断力のある様</p> <p>日本選手権優勝(ライスボウル):4回</p> <p>学生日本一優勝(甲子園ボウル):20回(同点優勝含む)</p> <p>関東学生リーグ優勝:32回</p> <p>&lt;低迷期&gt;</p> <p> 90年代、00年代に低迷期に陥った。原因は故篠竹監督の指導方針の時代錯誤。また、日大付属高校の有能な選手が競合大学(主に法政大学)に入って戦力がダウンした2点が挙げられる。近年は内田正人監督や井ノ口忠男コーチのもと、近代フットボウルを取り入れたため関東では法政大学と日本大学の2強の様相を呈している。</p> <p> </p> <pre> <span style="font-size:20px;">【ライスボウル】</span> </pre> <p>&lt;概要&gt;</p> <p>アメリカンフットボールの日本一のチームを決定する選手権試合のこと。正式名称はアメリカンフットボール日本選手権 第○回ライスボウルである。後ろに協賛企業の名が付く。最多優勝はオービックシーガルズ7回である。</p> <p> 1948年から学生オールスターの東西対抗戦として1月15日の前後に行われてきた。1983年度ら日本選手権として位置付けられ、学生代表(甲子園ボウル優勝チーム)と社会人代表(ジャパンXボウル優勝チーム)が直接対決する形となった。併せて毎年1月3日に開催されるように変更された。</p> <p>&lt;歴史&gt;</p> <p> 戦後の焼け跡から蘇った日本のアメリカンフットボールは、めざましい勢いで復活した。47年4月に東西大学王座決定戦として甲子園ボウルが誕生。東京では戦前に行っていたオールスター戦の復活を願って関係者が奔走し、同年12月に急遽開催が決定した。出場選手はリーグ戦終了後、オールスター選手、監督、コーチ陣を選出してチームを編成し、大急ぎで大会を告知するポスターを作り上げて宣伝活動を行うなど、関係者は試合の準備に追われる毎日だった。</p> <p> 大会名称は、米国の新聞記事がヒントになった。戦前に東西選抜対抗戦を米国の新聞が、『日本人は米(ライス)を主食としているから、日本のボウルゲームはさしずめ“ライスボウル”とでも言うのではなかろうか』と報じていたことにちなんで、ライスボウルと命名されることになった。</p> <p> </p> <pre> <span style="font-size:20px;">【甲子園ボウル】</span> </pre> <p>&lt;概要&gt;</p> <p> 全日本大学アメリカンフットボール選手権大会の決勝戦のこと。正式名称はパナソニック杯毎日甲子園ボウルである。毎年12月の第3日曜日に、兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場で行われ、主催は日本アメリカンフットボール協会と毎日新聞社、特別協賛は2008年からパナソニックグループが務めている。</p> <p> 2008年度までは「東西大学王座決定戦」として、関東学生リーグと関西学生リーグの王者同士が対戦する形で大学王座を争った。2009年のシーズンから、全国8連盟による全日本大学選手権の開始と共に、その決勝戦としての舞台に移行した。</p> <p>&lt;歴史&gt;</p> <p>日本のアメリカンフットボールは、立教大学のポール・ラッシュ博士により1934年に組織化された。当 時日本に留学していた日系二世たちを中心として関東の大学でチームが結成され、戦前のチームとしては立教大、明治大、早稲田大、慶応大、法政大、日本大が 関東で、関西大、同志社大、関学大が関西で創部した。</p> <p> その活動は第2次世界大戦で中断し、戦後まもなく1946年2月に関西、6月に関東でそれぞれ大学の連盟が結成され活動が再開される。戦前の1939、40年に、甲子園ボウルの前身とも言える東西大学の対抗戦が行われたが、戦争のため中止を余儀なくされた。</p> <p>&lt;第68回大会&gt;</p> <p> アメリカンフットボールの全日本大学選手権決勝、第68回甲子園ボウルは、甲子園球場で行われ、大村和輝コーチ率いる西日本代表の関学が、井ノ口忠男コーチ率いる東日本代表の日大を23-9で下し、3年連続26度目の優勝を果たした。</p> <p>関学大はQB斎藤を軸とした多彩な攻撃と堅守で前半を10-3で折り返した。</p> <p> 第4クオーターにはインターセプトで得た攻撃権をFGにつなげるなどして突き放した。23年ぶりの優勝を狙った日大はQB高橋遼が不調で、TDは終了間際の一つに終わった。</p> <p>年間最優秀選手に贈られるミルズ杯は関学大主将のDL池永健選手、甲子園ボウル最優秀選手は2TDパスを決めた斎藤選手が選ばれた。</p> <p> </p> <pre> <span style="font-size:20px;">【あずまボウル】</span> </pre> <p>&lt;概要&gt;</p> <p> 関東大学アメリカンフットボール選手権のことである。関東大学選手権として第40回を迎えた2011年より現在の名称となった。関東学生リーグ1部AブロックとBブロックの優勝校が対戦する。勝者は全日本大学アメリカンフットボール選手権に出場し、パインボウルの勝者と甲子園ボウルの東日本代表の座を争う。</p> <p>&lt;歴史&gt;</p> <p>関東大学選手権は1970年度に関東学生リーグが1部2部制から5つの並列リーグに再編成されたことに伴い創設された。</p> <p> 第1回(1970年)と第2回(1971年)は5校の優勝校によるトーナメント戦、第3回(1972年)から第8回(1979年)は並列リーグの上位校8校によるトーナメント戦、第9回(1978年)から第11回(1980年)はそのうちの1校と他地区の1校による予選を加えた方式で行われた。第11回(1980年)には日産自動車がスポンサーにつき小型自動車の名前をとった「パルサーボウル」という名称がついた。関東大学選手権と別にパルサーボウルにも大会回数が通算されている。それまで決勝の会場には駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場が使用されていたが、横浜スタジアム次いで東京ドームが使用されるようになった。</p> <p> 第12回(1981年、第2回パルサーボウル)からはリーグの再統合による1部リーグの並列化に伴い、現在と同じ1部Aブロック優勝校と1部Bブロック優勝校による対戦1試合に変更された。日産自動車のスポンサードは第25回(1994年、第15回パルサーボウル)で終了し、第26回(1995年)は別称なしで行われ、方式も1部A・Bブロックの各2位までの4校によるトーナメント戦に変更された。第26回は決勝で東京ドームを使用したものの関東圏でのアメフト人気衰退からの運営費難などもあり第27回(1996年)からは川崎球場を使用した。</p> <p> 第31回(2000年)には新たな名称が公募され、「堅いものどうしが激しくぶつかり合う」という意味の「clash」から「クラッシュボウル」という名称が採用された。しかし日本語の読みでは衝突事故やハードディスクの故障を表す「crush」と変わらず、パソコン業界や航空業界に広告の依頼を断られることが多かったという。また決勝の会場もさいたまスーパーアリーナに変更され、第34回(2003年、第4回クラッシュボウル)からは味の素スタジアムになった。</p> <p> 第37回(2006年、第7回クラッシュボウル)には再び出場校が現行方式に戻った。2009年には甲子園ボウルの出場校が全国の大学を対象にすることになったために関東大学選手権は休止され、全日本大学選手権の東日本代表校決定戦としてクラッシュボウルが開催されることになった。クラッシュボウル準決勝戦で関東1部A・Bブロックの優勝校と北海道と東北の1部優勝校が対戦する方式となり、日本学生協会の主催、関東学生連盟の主管になった。2011年には関東大学選手権が再開され、第40回関東大学選手権・第1回あずまボウルとして横浜スタジアムで開催された。なお関東学生リーグの再編[1]に伴い、2013年大会を以って廃止されることが予定されている。</p> <p> </p> <pre> <span style="font-size:20px;">【ミルズ杯】</span> </pre> <p>&lt;概要&gt;</p> <p>日本全国の学生アメリカンフットボールで、1年間を通じ、最も活躍した選手に贈られる年間最優秀選手賞。</p> <p>対象は関東学生リーグ、関西学生リーグの選手。</p> <p>1974年の創設以来、記者投票によって甲子園ボウル試合会場で選出されていた。</p> <p>2009年以降、全日本大学選手権となったことを境に、全国8地区の中から年間を通じ、最も功績のある選手が選ばれることとなった。</p> <p>また、過去二回、現在の選考方式になる前に甲子園ボウルの敗戦チームからミルズ杯受賞者が出ている。</p> <p>&lt;由来&gt;</p> <p> 合衆国のアメリカンフットボールコーチ協会の委員会メンバーを務めた経験を持ち、カレッジフットボール協会コーチ部門の初代書記長でもある「チャック・ミルズ氏」がこの賞の名前の由来。</p> <p> ミルズ氏は、NFLカンサスシティー・チーフスのアシスタントコーチ時代に、第1回スーパーボウルに出場を果たした。以来、30年近くに渡って、カレッジフットボールのヘッドコーチを務め、4度のリーグ最優秀コーチに選ばれ、彼の指導したチームは4回、全米ランキング入りを果たしている。</p> <p> 当時の日本に、本場のフットボールや、様々なトレーニング方法を学びたいという関係者の熱意を受け止め、フットボール留学を受け入れ、彼自身も毎年ように来日して積極的にクリニックを行った。こうしたミルズ氏の功績をたたえて1974年から学生の年間最優秀選手賞であるチャック・ミルズ杯が制定され、甲子園ボウルで表彰が行われることとなった。</p> <p>このミルズ杯は今もなお、学生フットボール選手にとっての最高の目標である。</p>

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